職場の救世主



数年前、僕が働いている会社は最悪の雰囲気でした。仕事が忙しくなり人員を増やしたまではよかったけれど、やたらと他人を攻撃をしたりいちいち言い訳をするような人もいるわけで、例え仕事がデキていたとしても環境は悪化するばかり。

どんよりとして、萎縮させるようなピリピリとした悪い空気が流れているのに気づいた社長が、ある日、職場に1匹の犬を連れてきたのです。まだ成犬になる前のゴールデンレトリーバーで、好奇心旺盛に社員全員の机を嗅いでまわっています。

「頼まれてちょっとの間預かることになったレトリーバーの鉄だ。うちの猫とは相性よくないから夜まではここにいさせてもらうことにしたから。メール見ておくようにー」
社長は気軽にそう言うとエサやトイレの場所をみんなに告げて、出かけてしまいました。メールには社員全員に割り振られたエサやりと散歩の当番表とおやつや好きなおもちゃなど細かい解説が書いてありました。

最初は「余計な仕事が増えるー」「社長のわがままだよ」と文句ばかりだったけれど、1週間も経たない間に空気が変わり始めたのです。
会議で煮詰まって疲れたときや注意されてめげているとき、誰かが激しく怒り始めたときなどに、鉄が側に来てしっぽを振ったり、体のどこかをなめたりするだけで、すっと冷静になることができました。

僕が残業を押し付けられてイライラしながらパソコンに向かっていると、鉄が側に来てまるで手を止めるかのように前足を腕に乗せくるのです。「どうした?」と心配しているような鉄の表情に、顔がゆるみ「ちょっと休むか」と気分転換できて、落ちついて仕事をこなせました。

1カ月も経つと職場の雰囲気は明らかによくなり、みんな笑顔が増えていました。そしてコミュニケーションが楽に取れることで仕事の効率もよくなり、萎縮させる空気がなくなったため単純なミスも減るというくらいの大きな変化でした。

社長が「ちょっとの間預かることになった」と言っていたので、いつか別れの日が来るのかも…と心配になるほど、鉄は職場に溶け込んでなくてはならない存在になっていました。
ある日、数人でランチをとっているときに、そのことを話すとみんな同じように思っていることが判明。ちょうど全体ミーティングがある日だったので、「このままいてほしい」とお願いすると決めたのです。

ミーティングの最後、先輩社員が立ちあがると僕を含めて4人が一緒に立って、鉄をどこにもやらないでほしい、鉄が自分たちにとってどんなに重要な存在かをひとりひとりプレゼンしていきました。僕たち以外の社員も、みんなうなずいています。

僕たちのお願いが終わると、社長はニコニコ笑って、「そうか。君たちの気持ちはよくわかった。効果あったんだな! うれしいよ」と言うではありませんか。
社長の説明によると、犬がいる職場ではストレスが軽減されて満足いく仕事が効率よく行えるという記事を読んで、ダメ元で試してみることにしたんだという。偶然、鉄を保護していたので、もし変化がなかったり、鉄にストレスがかかるようであれば「もう預からなくてよくなった」と言って、家に連れて帰るつもりだったそうです。

そんなことにならなくてよかったのと、社長の策略にまんまとハマっていたのとで、みんなその場に崩れてしまいました。そして、鉄はうちの会社の看板犬かつ、業績アップをもたらしてくれた救世主として、ずーっと君臨しています。