家族にまつわる泣ける話、感動する話をまとめました

家族の感動する話、泣ける話を紹介します。あなたには大切な家族はいますか?いつもあなたを見守っている家族の泣ける話です。

祖母との最後の会話

あれは高1の時だったかな。
家も近くて幼馴染の拓也と同じ高校に進学することができて、いつも電車の中でくだらない話で盛り上がっていた。
二人ともゲーマーでもちろん帰宅部だったから、行く時間も帰る時間も大体同じ。
そこそこ田舎だったから電車の中のメンツもなんとなく顔見知りだった。


その中に少し腰の曲がったおばあちゃんがいて、しょっちゅう俺たちに話しかけて来た。
それも毎日毎日同じような話。
俺は「無視しろよ…」と内心思っていたけど、普段特別親切なタイプでもない拓也は何故か律儀にその会話に付き合ってあげていた。


だけど、あの日はちょっと様子が違った。
いつものように俺たちを見つけると話しかけてくるはずのおばあちゃんは、多分、俺たちより何個か先の駅で降りるんだけど、今日は何故か同じ駅でおりて、降りたはいいもののオロオロと駅で立ち尽くしているのだ。
聞くと、どこにいけばいいかわからないし迷子になったと言っている。


俺は「適当に駅員さんに引き渡して帰ろう」と拓也に提案したけど、拓也は「おばあちゃん、財布見せて」
というと病院の診察券と予約票を見つけ、「今日の9時から◯◯病院でしょ?じゃあ次の次の駅だよ。」と優しく諭していた。
それでもオロオロするおばあちゃんの手を引くと、なんとまた電車に乗り込み、学校とは違う駅の方向へ向かってしまった。
俺も慌てて追いかけ、結局おばあちゃんの通っている病院の最寄駅で一緒に降りた。


駅に降りると大学生くらいの若い女性が取り乱した様子でおばあちゃんに駆け寄ってくる。
事情を話すと、俺と拓也の手を握りながら何度もなんども「本当にありがとう!」とお礼を言われた。
この女性はおばあちゃんのお孫さんで、最近、迷子になることが増えて、通院をさせるのが心配だったけど一人で行けると聞かなかったそう。
病院から予約の時間になってもおばあちゃんが来ていないと家に連絡があり、みんなで慌てて探しに出たところだったという。


「今時の高校生でこんな親切な子たちがいるんだねえ!」
と女性は感動した様子で、駅ナカのコンビニでお礼にとパンやお菓子、ジュースなどを買ってくれた。
「私、一緒に住んでると、どうしてもばあちゃんに優しくなれない時があるんだ。今日も一人で行ける、危ないよって言い争いになって、じゃあ行ってきな!って追い出しちゃったんだけど、すぐにまずいことしたって気づいた…でも危ないとこだったよね」
と目に涙を浮かべていた。
すると拓也が「実は俺、中三の頃、いつもなんでも甘やかしてくれるばあちゃんに、ゲームをねだったら、受験の邪魔になるから買ってあげられないって断られて…母ちゃんと父ちゃんに止められてたかららしいんだけど、俺はばあちゃんにクソババー!って悪態ついて、そのまま不貞腐れてずっと口聞かなかった。そしたら結局、口聞かないまま、ばあちゃん死んじゃって。それ以来、後悔してんのか、似たような雰囲気のばあちゃんほっとけなくて。」
「俺みたいに、意地はってたらそのまま会えなくなっちゃうこともあるし、こうやってすぐに探しに行ってあげるのすごいと思います!」
今までちゃらんぽらんだと思ってた拓也がなんだか大きく見えた。
拓也の行動と、その言葉で、おばあちゃんだけでなくこの女性も救われたような表情をしていて、少し面倒臭がっていた自分が恥ずかしかった。


俺には照れ臭かったのか、そんな話は一切してくれなかったので驚いたけど、あの日以来、俺もおばあちゃんと拓也の会話に積極的に参加するようになった。
この一件がきっかけで俺は今、介護の仕事をしている。
困っているお年寄りだけでなく、その人たちを支える家族も助けられることに気づいたからだ。

小児がんだった息子の願い

歳の離れた弟は体が弱く、小さい頃から何回も入院を繰り返していて、両親に代わって僕がお見舞いにいくことがよくありました。
同じ病室には小児がんでずっと入院している子が何人かいて、特別人懐っこいF君と僕は弟と同じくらい可愛がっていました。
F君は何年もほとんど病室から出たことがなく、F君のご両親曰く、病状も思わしくない状況が続いているとのことでした。
それでもご両親も、F君も、いつもとっても明るいんです。
親子で話しているときは、ごく普通の幸せの家族そのもので、僕の弟はF君ほどの重病ではありませんでしたが、入院のストレスで塞ぎ込むことも多く、F君一家の明るさには驚かされていました。
しかし、ある時期を境に、F君の病状は僕の目から見てもわかるくらいに悪化していきました。
僕もなんと言葉をかけていいかわからず、当たり障りのないことを話すことしかできなかったのですが、それでも病室ではF君のご両親はいつも通りに明るく振る舞い、F君も調子が悪い中でも笑顔を絶やしていませんでした。
「本当に強い家族だな…」と驚いたものですが、お見舞いに行った帰りのタクシー乗り場で、F君のご両親が泣いているのを見て、僕は胸が締め付けられる思いでした。
またその後、F君がベテランの看護師さんに「僕は、あとどのくらい生きられるの?」と聞いているのを聞いてしまった僕は、F君家族が病室で無理をしてでも明るく振舞っていることに気づき、涙が止まらなくなりました。
それから数週間して、F君のがんはさらに重くなったようで、重症患者の病棟に移りました。
僕は、ご両親が帰った後に不安そうな表情で自分の余命を訪ねるF君の姿が忘れられませんでした。
その後、F君が亡くなったことをF君のご両親から聞かされました。
「今まで仲良くしてくれてありがとう。」と、弟におもちゃを持ってお礼を言いに来てくれたF君の両親は、見たことがないくらいに憔悴しきっていました。
大人でもその副作用に苦しむくらいですから、子供にとっての抗がん剤治療はとても苦しいものです。
F君のご両親は、「これを打てば良くなるから」と言ってF君を励まし、F君はそれを信じ、我慢して注射を打ち続けたそうです。
最期、もう手の施しようがないくらいに悪化して、息を引き取る直前のFくんは、消え入りそうな声で「注射…打って…」と懇願したというのです。
「注射を打てば、よくなる」、ご両親の言葉を信じ、何度も何度も痛みに耐えて注射を打って来たF君はまた注射を打てば、自分はまだ生きられるんだ、そう思って、注射を打って欲しいと何度も何度もご両親に頼みこんでいたそうです。
その姿が今でも目に焼き付いて離れない…ご両親は目を真っ赤にして僕にそう話してくれました。
あれだけ病気がちだった弟も、今ではすっかり病気知らずでスポーツ推薦で大学にいくほどになりました。
幼かったこともあり、弟はF君のことも含めて、入院生活のことはほとんど覚えていないようですが、僕はF君とご両親のことは一生忘れないでしょう。

亡くなった妹からの手紙

あれは3年前の冬のことでした。
私は特に妹と仲が良かったわけではないのですが、急に「妹と話したいな」と思い、「最近どう?元気?」とメールをしました。
しかし、そのメールの返事がくることはありませんでした。
妹からの連絡の代わりに来た連絡は妹の自殺を告げる電話だったのです。
亡くなった時刻は、ちょうど私がメールを送った少し後だったそうです。
もしメールではなく電話をしていれば、妹の異変に気付けたのではないか、私は目の前が真っ暗になりました。
妹は長いこと鬱病を患っていました。
心配した母は、毎日仕事終わりに実家に夕飯を食べにくるように言いました。
妹の異変に少しでも気づけるようにと、母なりの気遣いでした。
食事の時には妹は仕事の話をしたり、外行きのメイクをしていたこともあり、母は安心していた部分もあったのですが実は、それは妹が最後の力を振り絞った芝居だったようです。
本当は、妹は鬱病の症状がひどく、仕事に行くことさえできなくなっていました。
しかし、母に心配をさせないように、メイクをして、着替えて、仕事の話まで母にしていたのです。
鬱病の人にとってこれはかなりの負担になるということを、看護師をしていた私には痛いほどわかります。
それだけではありません、妹は自殺の時も車の中で、誰にも迷惑をかけずに亡くなっていました。
助手席には、警察への手紙と、母への手紙があり、警察への手紙には
「ご迷惑をお掛けして大変申し訳ございません。」という謝罪の他、母や私の連絡先などが書いてあり、警察の方が手を煩わせないように気を使っていたというのです。
警察の方も目に涙を浮かべながら「あんなに死の間際まで気遣いをされる方は珍しいですよ」とおっしゃっていました。
母への手紙は小さな文字でびっしりと感謝の言葉、どうしても、もう生きて行くのが辛いから先に死なせてほしい、といった内容が書かれていました。中でも「私はもう生き切りました。人生から解放されたいのです。」という言葉は今も忘れることができません。
鬱病で辛い状態であったのにも関わらず、ここまで誰かを思いやる妹には言葉が出ませんでした。
そして、住んでいたアパートも空になっており、遺品整理なども済まされ、水道や電気なども解約されていました。
一般的には自殺は絶対にしてはいけないことだと言われています。
しかし、私は妹は「生き切った」と思っています。
自分がどんなに辛くても、身を削ってまで他人を気遣い、思いやる生活から解放され、これでゆっくり休めるね、と直感的に思ってしまたのです。
同時に、なぜ私は妹を少しも思いやってやれなかったのだろう?と思い、生死についての考えを改めるようになりました。
私は妹の死をきっかけに、人への関わりかたを思い直しただけでなく、人から受けた気遣いや思いやりを深く感謝し、その裏にある相手の苦しみなども考えるようになりました。
妹のような優しい人間が疲れ果ててしまう世の中を少しでも変えていけるように、今は自殺防止のボランティアをしています。そこで出会った夫と、3人の子供と今は幸せに暮らしています。私は妹の死を責めたりはしたくありません、それではまた天国の妹が気を遣ってしまうと思うからです。妹に伝えたい言葉はただ一つです。
私の生き方を変えてくれて、夫に会わせてくれて、たくさんの気遣いと思いやりをありがとう。

早世した若き天才数学者

2013年、一人の若き天才数学者が31歳という若さでこの世を去った。彼の名は、長尾健太郎。

人は彼のことを「神童」とも「天才」とも「未来を嘱望された若手数学者」とも形容する。ただ一環しているのは、彼の頭脳力と、それに劣らない人格に対する尊敬と敬愛だった。

数学の天才として語られる長尾健太郎氏は、深く鋭く優しく熱く、世の中を語り、人間を語り、美しい言葉を紡ぎあげる青年だった。

長尾健太郎氏は、東大に多くの進学者を輩出している開成高校時代、国際数学オリンピックで3年連続金メダルを獲得した。

開成高校卒業後、東京大学理科I類に進学し、囲碁の国際大会の日本代表として活躍。

京都大学大学院に進学し、表現論と幾何学を研究して、博士号を取得。日本数学界の期待の星となった。

英国オックスフォード大学に留学後に、名古屋大学大学院多元数理学研究科の教員として教壇に立った。

しかし、そのころ、すでに胞巣状軟部肉腫という筋肉の癌に蝕まばれた状態にあり、壮絶な闘病生活を送っていた。

15歳で発症した胞巣状軟部肉腫は25歳を過ぎてから肺に転移するなど進行が早まっていた。

2010年には、妻との間に待望の子供を授かり、彼は弱音を吐かず、子供の成長を生きる希望にしていた。

しかし、日本数学会から名誉ある「建部賢弘賞」を受賞する。だが、愛媛県で行われた受賞式が3歳の息子に見せた「かっこいい父親」の最後の雄姿となった。

彼の死後、全国の小中学生が算数や数学の思考力を競う「算数オリンピック」に新たな特別賞「長尾賞」が新設された。

愛する妻と抱くことの出来なかった我が子

この話は、誰にでも起こることであり、命の誕生というのがどれほど尊いものなのか、奇跡であるのかを感じてほしい。
そして愛する妻と、愛する子供をお持ちのお父さんは今ある現状を「当たり前」だと思わないでほしい。
私は未だに現実を受け入れられないでいる。
しかしこの現実を伝えることで、これから親になる人たち、現在お子さんをお持ちの親御さんたちの胸になにか響くものがあればいいと思っています。
20代前半で結婚した私たち夫婦は、お互い仕事も順調で夫婦の時間をしばらく満喫していました。
妻が30歳に入る前に子供ができるといいねと話していましたが、なかなかそううまくいくものでもありませんでした。
結婚10年目を迎えて、ようやく待望の赤ちゃんを授かることができました。
エコーに写る小さな小さな我が子に、二人で感動して涙を流したのを覚えています。
「この子を大切に大切に育てよう。」二人が親になる決心をしたのもこの頃です。
妊娠中の生活は気を付けなければならないことが多く大変でした。
毎日の食事面や生活面で常にお腹の子を気遣いながらの生活は緊張感がありながらもどこかわくわくした気持ちがあって全く苦ではありませんでした。
妊娠5ヶ月を過ぎて、妻のお腹がちょっとずつ大きくなるにつれて自分が親になる実感もわいてきました。
特になんのトラブルもないまま10ヶ月が過ぎました。
あの日もいつもと何も変わらない笑顔で妻は健診に向かいました。
もしかしたらもう産まれてくるんじゃないかと思いそわそわして妻の帰りを待っていました。
ですが、もう妻が帰ってくることはありませんでした。
この手で抱くことを10ヶ月間待ちわびた我が子にも、一度も会うことができませんでした。
死因は常位胎盤早期剥離という妊娠中や分娩前に胎盤が剥がれ落ちることで、胎児が脳性麻痺や死に至るというものでした。
大量出血により母体も死亡することもあります。原因は未だにはっきりとはわかっていませんが、高齢出産や高血圧などの人に比較的多いとされているようです。
妻は基礎疾患もなく、妊娠中にかかりやすい高血圧や糖尿にも人一倍気をつけていました。
常位胎盤早期剥離は通常のエコーでも気づきにくく、早期発見は難しいそうです。
これから家族3人になる予定だったのに、気づいたら家には私一人取り残されていました。新しく迎え入れるはずだった我が子のために用意した服やおむつ、ベッドを見るたびに涙が溢れ、胸を締め付けられます。
なんで妻が、なんでうちの子が、そう何度も自分自身に問いかけました。
けれどこれは誰が悪いんじゃない。誰しもが起こりうることです。
たまたま私の妻が、私の我が子が常位胎盤早期剥離によってこの世を去ってしまった。
これから出産を控えている人にとっては不安になるかもしれません。
最後まで、決して油断せずに元気な赤ちゃんを産んでください。
そして無事に生まれたことは決して当たり前なんかじゃない。
命の誕生は奇跡なんです。そのことを忘れずに大切に大切に育ててあげてください。

父の視線

父の視線

俺の父は、俺が6歳の時に死んでしまった。

ガンだった。

確か年齢は34歳で亡くなったと思う。

今思えばかなりの早死にだった。

あっけなく死んでしまったこともあるが、自分がまだ6歳と幼かったこともあり、父の記憶はあまりなかった。

だから父のイメージは、俺の中ではあまり良いものではなかった。

どちらかといえば怖いという印象しかなかった。

父の記憶といえば、ひとつだけ鮮明に残っているものがあった。

それはラーメン屋の中での思い出だった。

これも詳しくは覚えていないが、父はラーメンの大盛りを一つだけ頼み、取り分け皿を枚もらいそこに俺の分のラーメンを入れてくれた。

多分、当時5歳くらいだった俺にとって取り分け皿の分量のラーメンでも結構な量だったのだろう。

食べるのに時間がかかった。

一生懸命食ったとは思うが、やはりそれなりの時間がかかってしまったと思う。

ふと見ると、父が俺のことを見ていた。

じっと見つめていた。

怖い顔をしてにらんでいたような記憶がある。

「早く食え」と急かされているようで、嫌で怖い思い出だった。

ちらちら父の視線を盗み見たが、父はいつまでたっても俺をにらんでいた。

「なんでそんなに俺のことにらむんや…」と思ったが、父の表情が何となく怖くて、再びラーメンに目を落とすと必死で食った。

それが数少ない父の記憶だった。

そんな俺も母に女手一つで育てられ、30になったころ結婚もした。

そして男の子を授かった。

とてもかわいく、目の中に入れても痛くないとはこのことかと初めて知った。

そして息子も先日幼稚園に入る歳になった。

だが、仕事が忙しいこともあり満足に遊べてやっていない。

だから先週、日頃の罪滅ぼしにと息子を連れて2人で出かけた。

そして昼飯時になり腹が減ったので何が食いたいかと尋ねたら、息子は「スパゲティが食べたい」と言った。

息子はまだ食が細いのでスパゲッティの大盛りを頼み2人でシェアして食べた。

息子は一生懸命食べていた。

先に食べ終えた俺は、頑張って食べている息子がとてもいとおしくずっと眺めていた。

そんな俺の視線に気づいたのか、息子はちらちらと俺の方を見ていた。

俺も多少気恥ずかしくもあり、仏頂面で見てみぬふりをしつつ、また息子が食べる姿を見ていた。

仕事が忙しく、普段あまり会話もない俺と息子だが、だからこそ俺は息子がとても愛おしく思えた。

気が付けば、いつまでも見つめていたいと感じていた。

あの時の親父の視線の意味が、今になってようやく理解できた。

父さん、ありがとう。

「最期まで笑顔で」誓った双子

私には双子の妹がいます。名前はあやか。

私たちはそっくりすぎるほどよく似ていて、両親もたまに間違えるほどです。

でも性格は全く違って、あやかは昔からとても活発で明るい性格でした。

いつも前向きで、運動をするのが大好きな子でした。

一方わたしは、ネガティブで体を動かすことがあまり好きなほうではありませんでした。

でもあやかと一緒ならどこへ行くのも何をするのもとても楽しかった。

あやかは中学、高校で柔道をしたり専門学校ではバスケットをしたり、社会人になってからはボクシングを始めていました。

いつも元気で明るいあやかのまわりには、たくさんの人が集まってくるような、まるで太陽のような子でした。

わたしはそんなあやかにいつも憧れていました。

そんな彼女をある病魔が襲いました。乳がんでした。発見されたときにはすでに末期状態で、余命1ヶ月を宣告されました。

運動が大好きで、いつも元気に動き回っていたあやかが、なんで。

その想いでいっぱいでした。辛くて悲しくて、毎日毎日涙が止まりませんでした。

でもあやかは

「まだ1ヶ月あるやん。あと1ヶ月、なにしようかな~。どっか旅行いかへん?くよくよしてる時間がもったいないわ!」

そういって携帯を取り出して宿泊先や航空券を調べていました。

あまりの前向きさに驚きながらも、朝まで旅行の計画を立て始めました。

一番辛いはずのあやかがこんなに前向きに頑張っているんだから、最期まで楽しい思い出いっぱい作ってあげよう!そう心に決めました。

余命の1ヶ月があっという間に過ぎて、私たちの目標は最期の思い出を作ることよりもガンを克服することに自然と向いていました。

北は北海道、南は沖縄まで、あやかの行きたいところにたくさん行きました。

毎日あやかの笑顔を見ていると、本当にガンは消えてなくなるんじゃないかと思えてきました。

でも現実はそう甘くはありませんでした。

順調に快方に向かっていると思われていた矢先、急に状態が悪化しそのまま入院をすることになりました。

またわたしは毎日泣いていました。このままあやかがいなくなったらどうしよう。

そんなことばっかり考えていました。

するとあやかが

「なあ、私らそっくりの双子やからわかんねん。お姉ちゃんが泣いてたら、私が泣いてるの一緒。お姉ちゃんが笑えば、私が笑っているのと一緒やで。」

「やからな、約束してや。最期までずっと笑顔でおろ。みんなにあやかとお姉ちゃんの笑顔見せたろ。」

その日から私は涙を封印しました。あやかのために、あやかを支えてくれている人のために常に笑顔でいると二人で約束しました。

それが二人でした最後の約束でした。

あやかは29歳という若さでこの世を去りました。常に笑顔でいると約束したはずなのに、あやかを想うと涙が止まりません。

ふと空を見上げると、「お姉ちゃん!笑顔やで!」そうやって怒ってくるあやかの声が今でも聞こえてきそうです。

二人で行ったたくさんの旅行の写真を見ながら、あやかの笑顔を常に思い出します。

最期まで、そしてこれからも笑顔で。

母が握りしめていたタクシー代

俺は母子家庭で育った。

当然ものすごく貧乏で、それが嫌で嫌で仕方がなかった。

だから俺はバカなりに一生懸命勉強して、隣の県の大きな町の専門学校に入ることができた。

そして俺は貧乏な母子家庭のくせに、母に仕送りしてもらいながら学生生活を送り始めた。

今思えば母は相当懸命に働いてくれていたはずだ。

だけどバカな当時の俺はそんなことにも全く気付かずお気楽に学生生活を送っていた。

そして迎えたある夏休み、俺は久しぶりに実家に帰省した。

そして相変わらず貧乏くさい母と2日ほど暮らした後、一人暮らしの部屋に戻る際、冗談でちょっと言ってみた。

「荷物多いから、タクシー代くれんね?」

そしたら普段はのんびりとした性格の母が、

「何言いよんね!あんたに仕送りして母ちゃんカツカツで生活しとんのに、そんなお金出せるわけなかろ!」って、珍しく切れた。

そんな母の姿に、若かった俺は逆切れしてしまい勢いで電話でタクシーを呼んでしまったのよ。

もう、俺も母も意地になっていてどちらも口をきかなくなってしまった。

せっかくの久々の帰省だったのに、気まずい空気が流れ始めたころタクシーがやってきた。

俺も母もどちらも黙りこくったまま。

俺は無言で家を出るとタクシーに飛び乗った。

「もういいや、こんな貧乏な家とはもうお別れだ、もう二度と帰って来てやるもんか」。

そんな風に思い始めたころタクシーがゆっくり出発。

するとその時、母が家から飛び出てきたんだ。

手には、おそらく家のどこかに大切にしまい込んでいたであろう1万円札と思しきお札が握りしめられていたんだ。

俺はつい意地を張ってしまった自分の情けなさと母への申し訳なさで、気づけばタクシーの中で一人で泣いていたよ。

みんなも忘れないでいて欲しい。

どんな時も、母は我が子のことを思ってくれているってことを。

俺はタクシーの中で涙をこらえながら、母への感謝の気持ちが抑えきれんかった。

あの時、母が握りしめていた1万円札は、俺がこの先どれだけ働いて母のために恩返しをしたところで、その価値を超えることは絶対にできないくらい貴重なものだったと思う。

母ちゃんごめん。

俺社会人になって母ちゃんをもっときれいな家に住まわせることができるようになったら、タクシーで迎えに行くから。

その時俺は心に誓ったよ。

でも、母はきっとこう言うと思う。

「タクシーなんて乗らんから、そのお金でもっとしょっちゅう顔見せに戻ってきて」。

母ちゃん、本当にありがとう。

祖父の手を握ると温もり

まだ幼い頃、祖父を慕っていた私はよく一緒に寝ていました。私は祖父のことをとても慕っていたし、祖父にとっては初孫ということもあってよく可愛がってくれていました。小学校は良好な関係でしたが、やがて中学に進学し中学三年になる頃には会話も少なくなり、一緒に寝ることもなくなっていました。祖父の方から一緒に寝ようと言ってくれたときもありましたが、思春期が邪魔をして私は嫌がっていたんです。友達に冷やかされたりすることもあったので、意図的に祖父のことを遠ざけていたんです。それでも祖父は変わらず可愛がってくれていました。その頃の私は祖父を邪険に扱っていたと思います。やがて祖父は私に何も言わなくなっていきました。

当時の私は学校や部活が居場所だと感じ、家族との関係も段々悪くなっていました。それから数年後、祖父が倒れたと連絡がありました。私はその頃、素行の悪い高校生になっていてお見舞いにも一度しか行かなかったんですが、その一度のお見舞いを祖父は凄く喜んでいました。そんな関係のまま私は大学に進学し、祖父のことも忘れて学生生活をしていた頃、両親から祖父が亡くなったと連絡をもらいました。すぐに入院先の病院に向かい祖父の遺体を確認しました。もう長いこと、まともに会話をすることもなかった祖父なのに、もう声が聞けないと思うと涙が溢れそうになりました。気持ちの整理がつかない私に、両親は祖父が持っていたという一枚の写真を渡してきました。

その写真は小学校の頃、祖父と一緒に地方へ観光に行ったときの写真でした。まだ私と仲が良く、祖父も足腰が元気で私を肩車していたときのものです。祖父が大事に持っていた写真を両親から渡されたとき、お見舞いに一度しか行かなかった事や思春期に冷たい態度をとったことを後悔しました。祖母の話では祖父はいつも私の話をしていたらしく、受験の合否や体調の心配をしてくれていたそうです。私は祖父のことを何も考えず忘れてしまっていたのに、祖父は私のことを気にかけてくれていた、その事実を知ったとき涙が溢れて止まりませんでした。すっかり痩せ細り病室に横たわる祖父の手は冷たく、もう温かくなることもありません。それでも祖父の手を握ると温もりを感じた気がします。

月日が流れ、私も親になり家庭を持ち子供と毎日忙しく過ごしています。私によく似た子供の成長を祖父の墓前に見せるため、毎年実家に顔を出すのが私の家族の恒例行事となりました。

大切に飾られた小石

私の母の話です。私には三歳年下の弟が一人います。姉の私から見ても、とても人懐こく、優しい性格の弟は、誰からも好かれるとても可愛い少年でした。母は弟を溺愛しており、私は母の愛情が常に弟に向いているようで、いつも少し寂しい気持ちを抱えながら幼少期を過ごしていたように思います。

母は小さくて細工の細かいものや、可愛らしいものを集めるのが好きで、ミニチュアのティーセットやガラス細工の人形などを少し大きめのガラスのショーケースに並べて飾っていました。その中に、どう見てもその辺りに落ちているようなただの石ころが、美しい千代紙を台紙にして飾られていました。一見ただの石ころのようでも、何か霊験あらたかなお守りのようなものなのかな?と、少し気になりつつも特に母に尋ねることもなく、私はそのまま大人になりました。

社会人になって程なくして東京への転勤が決まった私は、そのまま東京で出会った男性と結婚し、東京で暮らすこととなりました。娘を授かり、母となった私は、年に数回娘を連れて実家へ里帰りする程度でしたが、母は初孫である私の娘をとても可愛がってくれていました。娘が1歳半を過ぎた頃、帰省中に母が娘を連れて散歩に出かけていきました。散歩から帰った母は、いつものように娘と洗面所へ向かい、手を洗っていたのですが、母はしばらくそのまま洗面所で何かを洗っているようで、水音が続いています。どこか怪我でもして傷口を洗っているのかと心配になり様子を見に行ってみると、母は洗面所で小さな石ころを丁寧に洗っている所でした。

「それ、何?」と私が訪ねると「これはサキちゃん(娘)の『はい、どーぞ!の石』だよ」と嬉しそうに答えました。「ハイドウゾの石ってなに??」と私が怪訝な顔をしたのが面白かったのか、母は笑って「サキちゃんが今日初めて私に、『ハイ、どーぞ!』ってこの石をプレゼントしてくれたんだよ。初めての孫からのプレゼントだから記念に持って帰ろうと思って。あんたがまだ赤ちゃんだった頃に『ハイ、どーぞ』してくれた石も、ちゃんと大事にとってあるんだよ」とタネ明かしをしてくれました。「もしかしてそれって、母さんのガラスのショーケースの中の、千代紙の上に乗ってる小石?」と聞くと、「そうそう、あれはあんたの『ハイ、どーぞ!の石』。せっかくだし、あんたのの隣に飾っておくわ」と母は自室へ戻っていきました。

弟ばかり愛されている、と僻んで過ごしてきた私・・・。母の愛情は私にもちゃんと注がれていたのだということは、自分が子を産んだ今となれば勿論疑いようのないことではあるのですが、綺麗な千代紙の上にチョコンと大切に飾られた小石が、母の私への愛情の象徴であったことを知り、胸が熱くなりました。今母のショーケースには、私の分と、娘の分の、二つの「ハイ、どーぞ!の石」が仲良く並んで飾られています。