病魔と闘い勝ち取ったカムバック賞



2015年10月16日に45歳の若さで逝去した元プロ野球選手がいた。

横浜ベイスターズや近鉄バファローズで活躍した投手、盛田幸妃。

身長186センチから投げ下ろす快速球を武器に、函館有斗高で甲子園に3度出場。

高卒1年目の1988年から一軍登板を飾り、徐々に登板機会を増やす。

1992年に14勝6敗2セーブとブレーク。52試合登板のうち46試合が救援登板だったが、3イニング以上のロングリリーフも何度もこなして規定投球回に到達。

最優秀防御率を獲得した。94年に登録名を「盛田幸妃」から「盛田幸希」に変更。背番号も「15」から、前年引退した斉藤明夫の「17」を継承する。同年は開幕前に右ヒジを手術した佐々木主浩に代わり守護神を務めるなど46試合登板で8勝4敗16セーブ、防御率2.48。95年もリーグ最多の57試合登板で8勝4敗5セーブ、防御率1.97と球界を代表するセットアッパーとして光り輝いた。

当時全盛期だった盛田の投球はすごみを感じさせた。ムチのようにしならせた腕の振りから150キロを超える直球に加え、140キロ後半の高速シュートが打者の胸元をえぐる。

制球が決して良いわけではなかったのも打者は恐怖感を覚えて腰が引けた。どん詰まりの打球で凡打の山を築いたが、時には死球を与えて打者に激高されるときも。だが、盛田も一歩も引かない。毅然とした表情でその後も内角を投げ続ける。負けん気の強さと覚悟を感じる投球スタイルだった。

1997年オフに中根仁との交換トレードで近鉄へ移籍。

横浜で救援から先発転向後は思うような結果を出せなかったが、近鉄で再びセットアッパーに戻ると32試合登板で5勝1敗1セーブ、防御率2.91の好成績をマークする。
しかし、体に異変が起きた。

5月末頃から右足首の違和感や麻痺などの症状が出て次第に悪化し、8月13日に一軍登録抹消された。

病院で検査を受けたところ、ゴルフボール大の髄膜腫が見つかり、9月に摘出手術を受ける。

医師から野球選手として復帰することは厳しいことを伝えられたが、盛田はあきらめなかった。

必死のリハビリと驚異的な回復力で翌99年のシーズン最終戦で一軍復帰した。

大病から復帰後は右足首に特製のギブスをつけて投げ続けた。

軸足の右足が思うように動かせない状況は想像を絶する苦労があったが、悲壮感を見せずにマウンドで淡々と投げた。

高速シュートは往年のキレではなかったが、緩い変化球を交えてゴロを打たせる投球術で活路を見出す。

2001年は6月13日のダイエー戦で1082日ぶりの白星を飾り、球宴も中継ぎ投手部門でファン投票1位に選ばれて出場する。34試合の救援登板で12年ぶりのリーグ優勝に貢献し、カムバック賞を受賞した。

翌年限りで現役引退を決断する。

通算成績345試合登板で47勝34敗29セーブ、防御率4.05。

引退会見で、「自分にやれることは終わったかなと、気持ちの上で満足したことが大きかった」と穏やかな表情を浮かべた。

ユニフォームを脱いだ後は古巣の横浜(現DeNA)で球団職員を務めながら解説者として精力的に活動していたが、病魔が体を蝕む。

2005年の夏に脳腫瘍が再発するが、翌2006年2月に除去手術を受けて成功した。しかし2010年に脳腫瘍の転移による骨腫瘍が発生、2013年には脳腫瘍も再発、骨への転移と手術も繰り返すようになり、2014年の春には大腿骨を骨折していた。

2015年に入って全身に癌が転移し自宅療養に入っていたが、10月16日午前、転移性悪性腺腫のため死去。

盛田の生き様は多くの野球ファンの心に深く刻まれている。