自慢の祖母との別れ



母方の祖母は大正生まれ。貧しい農家の出身で、小さい頃から子守と家の手伝いに追われました。小学校も満足に通えなかったために、あまり読み書きができませんでした。そのことを恥じていた祖母は、独学で漢字を覚えたそうです。町で配られていたチラシを必死に読んだり、お店の看板を目で追ったりして、一つ一つの漢字を頭の中に入れたと話していました。やがて結婚して子が生まれ、孫ができた後も、祖母にとって読み書きが堪能ではないことはコンプレックスになっていたようです。時折、離れて暮らす孫たちに手紙を書き送っていましたが、「へたでごめんね」と書き添えてありました。たしかに、祖母の文字はカクカクとして読みにくく、平仮名ばかりの文章でした。けれど、孫たちを思い遣る真心に満ちていて、手紙を受け取るたびに温かい気持ちになれました。

私が社会人になった年のことです。祖母に真っ赤な手帳を買って送りました。年を取っても尚、読み書きの不自由さを克服したいと願っていたのでしょう。祖母は料理のレシピやバスの時刻表などを、チラシの裏などにこまめに書き留めていました。送った手帳は、祖母にとって少し派手だったかもしれません。それでも、祖母はとても喜んでくれました。ささやかなプレゼントなのに、まるで宝物を手にしたように満面の笑みを浮かべて。もっと豪華なものを選べばよかったかな、と申し訳ない気持ちになったほどです。

若い頃から畑仕事をして体を鍛えていた祖母でしたが、寄る年波には勝てず、晩年は寝たきりになりました。その頃の私は結婚して、幼い子どもの世話にかかりきりでした。そのために、祖母の見舞いに行くことがなかなかできなくて、焦燥感を募らせながら日々を過ごしていました。訃報が届いたのは、ある秋の日でした。よく晴れた日で、澄み渡る青空が目に染みました。料理が得意で、人に振る舞うことが大好きだった祖母の葬儀には、親戚だけではなく、近所の方々もたくさん参列しました。「大往生だね」と口々に言っていましたが、その目には別れを惜しむ涙が浮かんでいました。葬儀を終えて、控え室で待機していた時のことです。母から、「病室の枕元にも手帳を置いていたよ」と聞かされました。「孫からもらったの」と、うれしそうに話していたそうです。それを聞いて、涙が止まりませんでした。祖母は料理だけではなく裁縫も得意で、私の子どもが生まれた時には布団を縫ってくれたこともあります。本当にたくさんのことをしてもらったのに、私は手帳を贈ることしかできなかったのです。赤い手帳は、祖母が懸命に書き記した文字で埋まっていました。生涯をかけて努力し、真摯に読み書きと向き合っていた、優しい自慢の祖母でした。



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