パラオの友情



南洋のパラオ共和国には、小さな島が幾つもある。

そんな島にも、戦争中はご多分に漏れず日本軍が進駐していた。

その島に進駐していた海軍の陸戦隊は、学徒出身の隊長の元、住民たちとの摩擦を避け、作業に人を使う時にも必ず代価を払い、善き隣人として戦地生活を送っていた。

中でも住人たちに喜ばれたのは、音楽の心得のある兵隊による唱歌の演奏で、島の人々も『ふるさと』や『さくら』などの曲を歌えるまでになった。

しかし戦況は刻々と日本に不利な情勢となって行き、この島にも米軍の襲来が避けられない情勢へと変って行った。

島の若者達は相談し、ある夜、日本軍の守備隊長を訪ねた。

どうか我々も仲間としてあなたたちと一緒に戦わせて欲しい、という志願のためだった。

その話を聞いた隊長は、みるみる内に怒色を満面に浮かべて、椅子を蹴り上げ叫んだ。

「我ら帝国海軍の軍人が、貴様ら如き未開の土人どもと共になど戦えるか!

貴様らなど戦の邪魔だ。三日の猶予を与える。パラオ本島に出て失せろ!」

あれほど日本人は東洋融和の仲間だと言っていたのに、見せかけだったのか…。

島の人々は悔し涙を流した。

いよいよ島を去る日、桟橋にとぼとぼと集まった住民。

当然ながら兵隊たちは誰も見送りになど来ない。

悄然と船に乗り込み、船が陸地を離れたその時、どこからともなく砂浜に沢山の日本兵達が現れた。

「ウサギ追いしかの山!小鮒釣りしかの川!」

と歌いながら、千切れるほどに戦闘帽を振る水兵達。

そしてその先頭にはあの守備隊長が。

満面の笑みで歌いながら帽子を振っていた。

島の人々はその時に気付いた。

あの夜の言葉は、自分達を生かすためのものだったのだと。

二週間後、米軍の海兵隊は周辺地域に殺到。224名の日本軍は全滅した。