奇跡を起こした「平成の三四郎」の早すぎる死



2021年一人の柔道家が53歳という若さで亡くなった。

柔道五輪金メダリストで「平成の三四郎」の異名を取った古賀稔彦。

常に一本を取りに行く柔道と、小柄な体からの切れ味鋭い技の数々、豪快な一本背負投が得意技だった。

全日本柔道連盟関係者によると、病気で療養していた川崎市の自宅で亡くなった。昨年、がんの手術を受けていた。

5月10日に佐賀県で東京オリンピックの聖火リレーのランナーを務める予定だった。

賀県北茂安町(現みやき町)出身。豪快な背負い投げで知られ、1988年ソウル五輪に出場。

バルセロナ五輪では直前にひざを痛める大けがをしながら金メダルを獲得。

古賀は現地入り後の練習で左ひざをひねった。

柔道着を着られず、全く畳に立てず、トレーニングもできず、ベッドで寝たきりで脚を冷やしていたという。

出場が危ぶまれたが、試合までの約10日間、ほとんど絶食して約4キロ減量して計量をクリア。

競技当日は、患部に痛み止めの注射を打ちながら出場し、決勝では痛みにもがきながらも僅差の判定勝ちで金メダルをもぎ取った。

「昨日まで試合に出られる状態ではなかった。決勝は、ほとんど気力だけ」と涙ながらに振り返った。

96年アトランタ五輪では銀メダルを手にした。

世界選手権は89、91、95年と3回優勝した。

2000年4月に引退後は指導者として日本代表女子の強化コーチを務め、女子63キロ級で04年アテネ、08年北京と五輪を連覇した谷本歩実さんらを育てた。

環太平洋大総監督を務めたほか、私塾「古賀塾」も主宰し、競技の普及にも尽くした。

柔道界では2015年1月、男子95キロ超級で五輪を連覇した斉藤仁さんが肝内胆管がんのため54歳で亡くなっており、7月の東京オリンピック開幕を前に再び大黒柱を失った。