【家族の泣ける話】誕生日の前日1月20日の土曜日

風邪だと思って受診した病院で「血尿がある、タンパクの値が高い」との診断を受け、そのまま入院となりました。
ネフローゼであるとのことでその日から6ケ月間、入院投薬治療を受けました。小学校6年の時にも検査および治療のために4か月の入院をしました。

しかし、病気は回復に向かうことなく、高校一年の時に尿毒症が悪化し、とうとう人工透析となりました。一番恐れていた事態でした。

自宅では青白い顔をして、食べたものもすぐ吐いてしまう状態が長く続き、主治医から人工透析しかないと宣告され、指示に従いました。初めての透析を終え、病室に戻って来た理恵の言葉は一生、いやあの世に行っても忘れられないでしょう「こんなことなら、もっと早く透析すればよかった」と。親としてはとても悲しい一言でした。

最初は腹膜透析から入りました、自宅でも出来るから便利ですよとの医師の薦めもありましたから。しかし、一年後に腹膜炎を併発し、医師から90%くらいの確率でだめでしょうと、まさに死の宣告を受けました。
目の前が真っ暗になり、医師の前で大泣きをしました。

しかし奇跡的に赤血球の値が高くなり、病状はゆっくりとですが回復して行きました。
通っていた高校は一年間休学した後、一年年下の子たちと仲良く通学し、無事卒業しました。
その頃は血液透析に変更し、週に3日間の透析治療を受けていました。

その高校と同じ経営の短大に合格し、入学式も終えました。

しかし、一週間も通わないうち辞めてしまいました。
「私が行きたいのはここじゃない、私は看護婦になりたい」と言い出したのです。もちろん反対しました。人工透析を受けている身でハードな看護師などとても無理だと、何度も話し、説得を試みました。
幼いころから病院通い、入院も続いたので看護師にあこがれているのだろうと思い、体を酷使しない仕事に就くべきだとも話しました。

しかし、理恵の意思はことのほか強く、とうとうある准看護学校に手紙を書き、ぜひ入学したいので受け入れてほしいと頼んだのです。数日後に理恵が嬉しそうな顔で私に准看護学校から来た手紙を見せて言いました「お父さん、試験さえ受かれば大丈夫なんだって。明日にでも学校に行って事務長さんと話してくれない?」と。19歳の秋のことでした。

それからは、あの子なりに一生懸命勉強したようです。
春の入学試験にも見事合格し、まさか独学でそこまでやるとは思いませんでした、立派なものです。
学校の近くの透析専門のクリニックで透析専門の准看護師として働きながら、そのクリニックで患者として治療を受けながら、看護学生として学校に通いました。二年後にははれて卒業を迎え、私も卒業式に参加し、一般席から理恵が戴帽させてもらった時には涙が止まりませんでした。

勤め先や透析を受ける病院は二、三回変わりましたがそれでも透析専門の看護師として、そして患者としての毎日は変わりませんでした。
平成22年の五月ころからでしょうか「私、高等看護師の国家試験受けるわ」と通信教育で勉強を始めました。
そして平成23年の3月には国家試験の免状も手にしました。
その4月から別の総合病院の透析センターに勤めを始めました。同じところで看護師として、そして患者としての勤めは同僚の看護師さんや技師さんたちにも迷惑を掛けるし、おたがいやりにくい部分もあるからと、透析治療を受ける病院は違うところに通っていました。

その年の8月のことでした。理恵が私に言いました「明日の午後1時半に病院に来て、外科の先生に話を聞いて欲しい」と。ガンが見つかったとのことでした。
翌日、傷心の心で震える足で病院に行き、話を聞きました。まさしく死の宣告でした。
肺腺ガンが見つかり、すでにリンパに転移していて手術もできないとの辛い、辛い、悲しい話でした。

しかし理恵はその後も看護師としてその病院の透析センターで働きつづけました。
抗がん剤治療も放射線による治療も効果はなく、病状は日増しに悪化してゆきました。
リンパに転移していたために右手はみるる大きく膨らんでいき、見るに耐えかねるような状態でしたし、本人も耐えられない辛い右ての痛みに泣く毎日でした。

明けて1月3日の早朝、激しい右手の痛みで二階の自分の部屋で大声で泣く声に目が覚めました「痛い、痛い、もう殺してくれ、死なせてくれ」悲痛な泣き声でした。
すぐに病院に連れて行き、そのまま入院となりました。数日後にはモルヒネを使って欲しいと自分から主治医の先生に申し出ました。なにしろ高等看護師の国家試験に合格した娘です。自分の自分の病状はわかっていたし、余命もわかっていたのでした。

1月21日は理恵の誕生日でした。
その勤め先の同僚の看護師さん、理恵の弟の奥さんやその子供たちが病室にプレゼントやケーキを持ってお祝いに来てくれました。にこやかな嬉しそうな顔でみんなと楽しく過ごしたひと時でした。
その翌日から一気に容体が悪化し、意識も薄れてゆきました。

平成24年1月24日午前4時11分、私と弟に看取られながら静かに、安らかにそして静かに38年の人生を終えました。
あの苦しくてたまらない痛みから死をもって解放されたのです。
お葬式では、お見送りに来ていただいた方たちから「若すぎる、38歳では」とたくさんのお言葉をいただきました。
しかし、私はあの子の38年はそれこそ私の今の年齢よりもっともっと内容の濃い人生を送って来たとお答えしました。

同じ時期、糖尿病の悪化で病床に伏せていた家内に代わり、私が24日間四六時中病院に付き添っていました。
思えば、お父さんっ子であったあの子との一番幸せな時間であったかもしれません。
没後、自宅にお参りに来ていただいた高齢の患者さんから、こんな言葉をいただきました「私は理恵さんに助けられました。同じ透析患者としてどれだけ理恵さんにはげまされ、力をいただいたかわかりません。今、私がこうしていられるのは理恵さんのおかげです」とおっしゃっていただきました。涙を流しながら聞かさせていただきました。理恵は私、いえ私たち家族の誇りです。

そして、3月には理恵の後を追うように家内も他界しました。
透析専門の病院で看護師として、そして透析患者としてあの子は38年を終えました。大好きだった、愛して止まなかった看護師の仕事。
あの子に看護師の制服を着せて旅立たせてやりました。きっと天国でも大好きな看護師やってるんだろうね。
理恵の戒名は月泉恵照信女(げっせんえしょうしんにょ)です。
枕経をあげに来ていただいた住職さんに理恵のそれまでの人生をお話し、戒名をお願いしました。そうしてつけていただいた戒名です。後日、その戒名の意味するところをお聞きしました。
月は点天にあって万人を平等に照らす、こんこんと尽きることなく湧き出る泉は人に恵みを与える。
まさに理恵が透析患者さんたちに尽くしてきたあの子の人生そのものです。
そんな素晴らしい、素敵な戒名が大好きです。