生まれて3ヶ月のとき、シトロンはうちに来た。
俺は小学校三年生だった。
それから俺は、毎朝犬小屋を覗いた。
丸くなって寝ているシトロンを呼んで、赤い綱をつけてやる。
川辺の空気なんて、腹の減る匂いを朝から嗅がせるためだ。
だけど、一人歩きなんて上等なことはさせてやらない。
その為の赤い綱だ。
シトロンは、小股で歩く。
やつは俺の撫で撫で攻撃を警戒してか、斜め45度後ろをとことこ歩いてくる。
やつが糞をしたら、目の前で拾う。
羞恥プレイだ。
「こんなにしやがって、なんて健康的な犬なんだ」
言葉責めだって忘れない。
歩くのに飽きた俺は、シトロンを急き立てて、サイクリングロードを走っていく。
道の終点、公園まで一目散に。
水溜りの泥水なんて、飲ませてやらない。
お前には、公園の流水がお似合いだ。
4歳のとき、シトロンの心臓に虫が見つかった。
俺は手を変え品を変え、やつに薬を飲ます。
バカなシトロンは気づきもしない。
俺を信じやがって、美味そうに薬入りの餌を食いやがる。
そんな時だって、ドッグフードなんてやらないぜ。
高い飯なんて、お前の口には合わないだろ。
どうせすぐに吐き出しやがる。
お前には、味の薄い犬用メニューがお似合いだ。
8歳のとき、祖父さんが死んだ。
兄弟が泣く中、俺はじっと黙ってそれを見ていた。
人前でなんて、泣いてたまるか。
シトロンは俺の制服を汚して、しがみつく。
だけど、しゃがんでなんかやらない。
俺の頬なんか、舐めさせてやらない。
お前には、俺の足元がお似合いだ。
12歳のとき、シトロンは神経症になった。
後ろ足を引きずって、15分も歩けない。
公園はおろかサイクリングロードまでなんて、とても行けやしない。
朝の散歩も、町内を周ってとっとと帰ってくる。
もう一度行きたいなんて、見上げたって、知らないぜ。
偉そうな顔をするくせに、少し歩くとしゃがみこむお前。
お前には、町内一周程度がお似合いだ。
13歳のとき、シトロンは行方不明になった。
仕事から帰ってきたら、いつもの小屋に姿が無い。
赤い綱も無くなっていた。
俺のシトロンを、誰が連れて行きやがったのか、俺は家族を問い詰めた。
だけど、誰も知らない。
町中、あっちこっちを走り回った。
だけど、どこにもシトロンはいない。
真夜中になって、ぐったりしたシトロンが帰ってきた。
近所のババアが、勝手に連れて行っていた。
問い詰めると、そのババアは毎日俺たちの目を盗んで、シトロンにプリンだの味の濃い煎餅だのも勝手に食わせていた。
そんな人間様の食い物をやるんじゃねえ。
怒る俺に、ババアはいけしゃあしゃあと、
「散歩に行けなくて、可哀想」
だなんて言いやがった。
それを決めるのはお前か?
医者と相談していたのはお前か?
違う、俺だ。シトロンは俺の犬だ。
ババアを警察に引き渡して、俺はシトロンを家に入れた。
庭の小屋になんか、もう帰してやらない。
お前には、俺の傍がお似合いだ。
14歳のとき、シトロンは寝たきりになった。
糞尿だって垂れ流し。
飯だって、俺様が食わせてやらなきゃ食えなかった。
「オラオラ腰を上げろよ」
ご主人様にケツを拭かせるなんて、なんてやつだ。
お前のために流す涙なんて、俺には無い。
悲しそうに見上げるなんて、生意気だ。
お前は黙って、甘えてればいいんだよ。
堂々と寝そべってやがれ。
お前には、暖かい部屋がお似合いだ。
一年後の秋の日、シトロンは死んだ。
虹の向こうになんて、俺の許しも得ずに逃げやがった。
黒いくせに、時々青くも見えた瞳を半分開けたまま。
俺は、シトロンの目を閉じる。
それから、濡れた頬をなでる。
硬くなった身体は、地面に張り付いたようだった。
幸せそうに眠りやがって。
帰ってこいなんて、言わないからな。
俺が虹の向こうに着くまで、祖父さんと一緒に待ってやがれ。
お前には、静かな朝がお似合いだ。
お前の毛布も、おもちゃも、ずっと俺は捨てられない。
どうして15年しか生きなかった。
俺の力が足らなかったのか。
それとも、もっと早く送っちまった方が良かったのか。
どうせなら妖怪にでもなればよかったのに。
ミルクくさい香りで家が満たされて、お前の匂いも家の中からどんどん消えていく。
虹が出たら俺は、小さな手を引いて、サイクリングロードを歩く。
俺の幸せを、お前に見せつけてやる。
虹の向こうで、待ってやがれ。