11年前の2月、何も無い湖の駐車場でガリガリの猫が寄ってきた。 よろよろと俺たちの前に来るとペタンと腹をつけて座った。
動物に無関心だった俺は「キタねー猫だな」と思っただけで、他に何とも思わなかった。 猫を飼っていた彼女がその猫を撫でながら言った。 「こんな所にいたら病気で死んじゃうね」 単細胞の若者だった俺は頭にきた。 「何、こいつ病気なのか?死ぬと分かってて放っておくのは殺すのと一緒だろ!何言ってんだオメー」
ドライブは中止。そのまま膝の上に乗っけて車を運転して帰った。 顔は目ヤニだらけ、鼻水で鼻はガビガビ、尻から出てきた回虫が俺のズボンの上を這っていた。 くしゃみで車のドアはベトベト、コホコホ咳をして、痰でゴロゴロいっていた。 「どうするの、その子?」 「治るまで俺が飼う」 「じゃあ名前は?」 「うーん…痰が詰まってるから…痰助」 「変な名前」 「うるせー」
獣医に寄って虫下しと風邪の薬などを貰って帰った 風呂場で綺麗に洗って、とりあえずシシャモとちくわを食べさせた、腹がカチカチになるまでがっついていた。
ペットは駄目なマンションだし、治って暖かくなったら逃がすつもりだったが、1週間で方針を変えた。 あっという間にまるまると太り、誰が見ても目を細めるような人懐っこい顔になり、夕方になると俺の帰りを玄関に座って待つようになった。
もともと飼い猫だったようで、トイレは最初からできた。車に乗るのが好きな変な猫だった。 人間も同じだろうが、食べ物で苦労したせいか、すごい食いしん坊だった。 冷蔵庫が開く度にダッシュで駆けつけ、何もくれないと分かると、わざと歩くのに邪魔な所に寝そべって俺に抗議した。 かつては歴戦のツワモノだったようで、耳は食いちぎられて欠け、しっぽは折れたまま曲がり、ケガの跡のハゲがあちこちにあった。
当時は分からなかったが、そうとう歳をとった猫だった 歯が何本も抜けていて、筋肉も細かった、一日中じっとしていた、食べる時以外に走ることはなかった。
ちょうど一年後、俺は痰助の誕生日を勝手に決め、仕事帰りに誕生日プレゼントとして一個千円のカニ缶を買って帰った。 普段は脇目も振らずに食べる痰助が、その日は一口食べるごとに俺の顔をじっと見ていた。 「なんだよ、俺でも食った事ないんだぞ。早く食わないと俺が食っちまうぞ」 いつもどおり缶の底がピカピカに光るまで食べたのだが、無理をして食べているように見えた。
誕生日の二,三日後、食欲が無く朝からぐったりしているので、いつもの獣医に連れて行った。 検査の結果、腎臓がかなり悪い事が分かり、即日入院となった。
先生が抱き上げようとすると、必死に俺の肩に登ろうとした。 先生に抱かれて診察室の奥の部屋に行くとき、ガラスのドア越しに見えなくなるまで俺をじっと見続けていた。
あのときの哀しい眼差しを、俺は生涯忘れる事はないだろう。
雪のちらつく朝、痩せた体に一輪の花を乗せて、痰助は大好きな車で俺と一緒にうちに帰った。 大工の弟に頼んで作った小さな棺に俺の写真と大好物だったちくわを入れて、痰助に出会った湖の桜の木の下に埋めた。
今となれば分かる。 湖からの帰り道、あれは痰が詰まっていたのではなく、嬉しかったんだと。
今日も壁に掛かったコロコロのたんすけが行儀良く座って俺を見ている。
お前がいなくなって十年経った今でも寂しいけど、それは俺の勝手だから我慢するよ。
変な名前付けて悪かったな、たんすけ、 でも今うちにいるお前の後輩も変な名前だから、勘弁しろよ。