これは今から30年近く前に、私の知り合いが実際に見た話だ。
その青年は、何度も何度も叫んでいたそうだ。
「サンキュー!サンキュー!」って。
その青年が叫び続けていたのは大通りの片隅、大勢の人が行きかう大都会の一角で、ひたすら繰り返していたらしい。
「サンキュー!サンキュー!」と。
彼が何に感謝しているのか、誰に感謝しているのかわからなかったので、大都会を行きかう人々は多少薄気味悪かったこともあり誰も彼に駆け寄ろうとはしなかったそうだ。
それでもなお青年は「サンキュー!サンキュー!」と叫び続けていた。
でも、やがて青年は静かになった。
それでも誰も、大都会の人々は彼に目を止めようともしなかったそうだ。
その青年はアフリカからやってきていた。
彼の祖国は戦火に苛まれ、貧しい暮らししかできないような国だった。
そんな祖国を離れ、少しでも豊かな暮らしがしたいとの思いから、彼はブローカーに大枚をはたいて国を渡ってやってきたそうだ。
やってきたのはアメリカ・ニューヨーク。
世界中の人種が集まる世界の経済の中心地。
そこなら、いくらでも仕事があると青年はブローカーに言われてやってきていた。
青年には夢があったそうだ。
ニューヨークで一生懸命働いてお金を貯めたら、国に残してきた両親や幼い弟や妹達を皆アメリカに呼び寄せてあげたいという。
反政府ゲリラとの内戦が続く祖国では、貧しく教育も受けられずそしていつ死ぬかも分からない。
だから、家族全員を自分の稼ぎでニューヨークに呼び寄せたい。
そんな夢があったからこそ、青年は全財産をブローカーに支払いニューヨークへの渡航にこぎつけていたのだ。
ニューヨークに行けばいくらでも仕事がある。
ブローカーにそう言われていたので青年は仕事を探し始めた。
しかし、彼には大事なものが欠けていたんだ。
彼は英語が喋れなかった。
英語が喋れなければ、当たり前だけどろくな仕事にはありつけなかった。
なんとか英語が喋れるようになりたい。
そう考えた彼に、親切なアメリカ人が教えてくれた言葉があったんだ。
「サンキュー」
どんな時も、この言葉を言っておけば大丈夫。
アメリカ人はそう教えてくれたそうだ。
「サンキュー」
この言葉の意味は分からなかったが、青年はどんな場面でも「サンキュー」とだけ言い続けた。
しかし、そんな彼にニューヨークの暗部が襲い掛かった。
不案内なニューヨークで青年は気づかぬうちに物騒なブロンクスに迷い込んでいた。
いいカモが来たと思ったギャングがすぐに彼に金を要求した。
しかし青年は、ギャングが何を言っているのかわからなかったんだ。
キレたギャングは青年の腹や背中を持っていたバタフライナイフで2度3度と刺し、すぐに逃げた。
刺されたことに気付いた青年は、もちろんすぐに助けを求めようと思った。
でも彼が知っている英語は1つしかなかったんだ。
「どんな時も、この言葉を言っておけば大丈夫だ」。
優しいアメリカ人が教えてくれた言葉を、助けてほしい一心で青年は一生懸命言い続けたそうだ。
「サンキュー!サンキュー!」
体中から血を流しながら「サンキュー!」と叫ぶ見知らぬ黒人を、ニューヨーカーは気の毒そうに見つめるだけだったそうだ。