これは私が四国でお遍路をしていた時の話です。お遍路とは弘法大師空海にゆかりのある八十八カ所のお寺をお参りしながら巡る事を言います。お寺は四国四県の様々な場所に位置しており、全てのお寺を巡るとその距離は優に千キロを越えます。お遍路を始めるにあたって、私はその行程を歩いて回ろうと決めていました。体力的に相当きついであろうことは容易に想像できましたが、それでも予定を変更するつもりはありませんでした。歩いて回る事に意味があったのです。
お遍路の旅に出る少し前に、私は30歳の誕生日を迎えていました。そこでふと考えてしまったんです。「私の人生、このままでいいのかな」と。振り返ると、それまで生きてきた私の人生には特筆すべき事柄が何もありませんでした。勉強が特別できたわけでも、運動が抜群にできたわけでもありません。武勇伝として語れるような悪さもしたことがありません。記憶をどれだけ掘り起こしても、誇れるような事柄は何も出てきませんでした。だから当時の私は、30歳という節目の年を迎えて自分の中に何もない事に気づき、不安になったのだと思います。そして唐突に「何かすごいこと」がしたくなったのでしょう。要するに羽目を外してみたくなったんですね。その結果がお遍路というのは我ながら変わっているなと思いますが、それでもお遍路を通して得た経験は想像以上に得難いものでした。
お遍路を始めたら、後はひたすら歩くだけです。八十八カ所のお寺は札所と呼ばれ、徳島県にある第一番札所から開始するのですが、一週間も経たないうちに歩き旅の過酷さを実感することになりました。疲労による足の痛みはもちろん、皮がめくれたりマメができたりと歩くこと自体が苦痛になり、早くも「無謀な挑戦だったかな」と後悔が頭をよぎります。しかし結果として私は途中で挫折することなく、最後まで歩き通すことができました。私が最後まで歩いて行けるように、たくさんの方が助けてくれたからです。
四国には「お遍路さん」をもてなす文化があります。お遍路さんというのは文字通り「お遍路をしている人」の事です。お遍路をしている道中、私は多くの方に「頑張って」と応援してもらいました。飲み物や食べ物をもらう事もありました。中には「これで飲み物でも買って」とお金をくれた方もいます。日常生活の中で、これ程人の温かさを実感したことはありませんでした。遠すぎるゴールを前にして何度心が折れそうになっても、その度に見知らぬ誰かが助けてくれるのです。勿論道々すれ違う方々全てが好意的とは限りませんが、だからと言って私を助けてくれた方々の有難さが薄れることはありません。やはりお遍路をやってみてよかったと思います。