アジアの歌姫と言われる台湾の歌手テレサテン。
両親ともに中国出身だった彼女。
中国と台湾の関係改善を願い続けた彼女は、その願いを叶えることをできないまま、わずか42歳という若さでこの世を去りました。
10歳の時、台湾のラジオ局主催の歌唱コンテストで優勝。天才少女として注目を集め、14歳の時にプロ歌手としてデビューする。
16歳の時、主演映画が製作され、女優デビューを果たす。
その後、シンガポールやタイ、マレーシアでも人気に火が付き、18歳で香港でもレコードをリリース、アジアのトップスターとなる。
1973年、香港で「日本の父さん」と呼ばれる舟木稔は、アジアでのテレサ・テンの人気に目を付け、足繁く台湾や香港に通ってテレサと両親を説得。
当時勤めていた「日本ポリドール」(現ユニバーサルミュージック)との契約を実現させる。
日本でのデビュー2作目となる「空港」が大ヒットする。第16回日本レコード大賞新人賞を獲得して日本でもトップ・スターの仲間入りを果たし、歌手活動も軌道に乗った。
1980年代初めには、中華人民共和国でもコピーされた彼女のカセットテープが出回るようになり、人々の心をつかんでいた。
1984年から1986年にかけ、『日本有線大賞』および『全日本有線放送大賞』の東西有線大賞で史上初の3年連続大賞・グランプリを受賞。
1985年12月には、彼女のソロコンサートとしては最後となるが、最大規模の演出をこらしたNHKホールコンサートが開催される。
1986年、改革開放路線を進める中華人民共和国においてテレサの歌が事実上解禁されたことで人気が再燃。
1989年5月27日には、かねてから中華人民共和国内で起きていた民主化要求デモを支援する目的で行われた、香港ハッピーヴァレー競馬場での中華人民共和国の民主化支援コンサートに参加。
約30万人の前で、平和を願う「我的家在山的那一邊」(私の家は山の向こう)を歌い、亡命した民主化活動家とも交流を持った。
1992年に中国で広く愛されている「夜来香(イェライシャン)」を新たにレコーディングする。
この頃、喘息を悪化させ、次第に体調を崩していく。
日本での最後のテレビ出演は、1994年11月に放送されたNHK『歌謡チャリティーコンサート』(仙台市にて公開録画)だった。
1995年5月8日、静養のためたびたび訪れていたタイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作のため死去。
42歳の若さだった。
台北で国葬が執り行われ、世界各国から3万人ものファンが詰め掛けた
墓所は台北市の北東に位置する台北県金山郷の金宝山にあり、小さな公園のように整備され、本名の一字を取って「筠園」と呼ばれている。
墓前には銅像があり、彼女の歌声が絶えず流されている。
没後10年目に当たる2005年5月8日には、日本をはじめとするアジア各国からファン300人ほどが墓所に詰めかけ、追悼集会を開いて生前のテレサ・テンを偲んだ。