今年の6月に母が亡くなった。火事だった。同居していた父親は外出していて、弟は無事に逃げる事が出来たのだけど、母親は煙に巻かれて既に駄目だった。
自分は違う地方に住んでいたのだが、電話で聞いた時にはどうする事もできず、ただひたすら号泣しながら高速を運転して実家に戻った。
火事でめちゃくちゃになった実家を見た時に、ああ本当に起こったんだ、と冷静に実感をした。
全焼だった焼け跡には何も残っていなかったが、アルバムやら保険の証書なんかの重要な書類は、焦げてはいたけど奇跡的に焼けずにジェラルミンのケースから出てきた。
母の遺体は警察に見せてもらえず、頬の裏側の粘膜をスプーンみたいなもので取られて、DNA検査の結果を待ってください。なんて言われた。僕は検視をした大学病院の先生に直接電話して、「母は苦しまなかったんですか?」と聞いた。「遺族の皆さんからのそういう問い合わせはいつも本当に多いのですが、私には分からないんです。」と優しい口調で諭された。
告別式や葬式が終わって、焼け残った書類なんかを家族みんなで調べていたとき、母親が残していた書類が出てきた。小さなそれは放水車の水で濡れて、炎で焦げてはいたけどちゃんと開く事が出来た。
それは、僕たち兄弟5人の母子手帳だった。僕の手帳には、産まれる前日まできっちり状態が書き込んであり、” ちょっと出血があったので心配。先生は大丈夫だと言ってたけど”と若かかった頃の母の直筆で、メモが残されていた。兄、2人の妹、弟の母子手帳もそれぞれいろいろな記録がしっかり書かれていた。
僕が産まれて35年間も、大事に、大切に保管をしてくれてたのだ。皮肉にも、母が亡くなって焼け跡の中で知った。
僕らは兄弟が多く、母はずっと苦労したと思う。当時は学費も生活費もかさんでお金もなかったから、よくパートに出ていた。スーパーで働いていた時は、廃棄になるおにぎりをいつも5つ持って帰ってきてくれていて、それを笑顔でみんながほおばっていたのを今でも覚えてる。
そんな母も僕ら一人一人に分け隔てなく愛情を注いでくれていた。「あんたらが大きくなったら一人で旅行とかいろいろ行くねん!早く大きくなってや。」と小さかった兄弟にいつも笑いながら言っていた。
母は、結局一人で満足に旅行は出来なかった。母の人生は幸せだったのかな?とよく思う。
母子手帳は、兄弟一人一人の手に形見として受け取った。みんなそれぞれに心に染みるものがあったと思う。
若かった母が身体の状態を気にしていたときには産まれてすらいなかった僕は、今は小さな子供がいる。母がしてくれたように、この子にたくさんの愛情を注いで、立派な父親になりたい。
それが、母に対する、恩返しになると思う。