それは、春の訪れを告げる4月の終わり、大学の卒業式の日のことでした。キャンパス内に咲き誇る桜は満開を迎え、その美しさがまるで別れを祝うかのように揺れていました。その日、キャンパスには多くの卒業生たちが集まり、友人や家族に囲まれて笑顔を浮かべながら写真を撮ったり、談笑したりしていました。しかし、その中にひとり、心に深い悩みを抱えた学生がいました。彼の名前は拓海、そして彼には、心に強く刻まれた約束があったのです。
拓海は4年間通った大学を卒業し、次の人生のステップを踏み出そうとしていました。しかし、彼にはどうしても忘れられない人がいました。それは、同じ大学に通っていた千夏という女性でした。二人は、大学の入学式の日に偶然出会い、その日からお互いを理解し合う大切な友人となりました。いつも一緒に授業を受けたり、図書館で勉強をしたり、大学祭では一緒に模擬店を運営したりと、二人の大学生活はほとんど共に過ごしていたのです。
しかし、大学3年生の冬、千夏は突然拓海にある告白をしました。それは、彼女が大学を卒業したら、海外での仕事に挑戦するために遠くへ引っ越すということでした。千夏はずっと国際的なキャリアを築くことを夢見ており、そのチャンスを掴むために、日本を離れる決断をしていたのです。
その知らせを受けた時、拓海は言葉を失いました。彼にとって千夏は単なる友人以上の存在であり、長い時間を共に過ごす中で彼女に対する特別な感情が芽生えていました。しかし、その感情を千夏に伝えることはありませんでした。彼女の夢を知っていたからこそ、彼は自分の気持ちを抑え、彼女の決断を尊重しようと決めたのです。
卒業が近づくにつれ、二人の間にはいつしか「別れ」という言葉が意識されるようになりました。残された時間が少ないことを感じながらも、二人は最後の時間をできるだけ楽しく過ごそうと努力していました。そして、卒業式の前日、二人はいつもの場所、大学のキャンパス内にある大きな桜の木の下で再び会うことになりました。
「拓海、これが私たちの最後の夜になるかもしれないね。」千夏は少し寂しげな笑顔を浮かべながら話しました。
「そうだな、でも俺たち、まだちゃんとお別れをしてないだろ?」拓海は少しふざけたように言いましたが、その声にはどこか切なさが滲んでいました。
「うん、そうだね。別れって、なんだかまだ現実感がないんだ。こうやって拓海と普通に話していると、明日もまた同じように会える気がして…。」千夏は静かに言葉を紡ぎました。
拓海もその気持ちがよくわかりました。ずっと一緒に過ごしてきた日々が急に終わるという実感はまだ湧いていなかったのです。しかし、彼はその時、思い切って千夏に一つの提案をしました。
「千夏、3年後、またこの桜の木の下で会おうよ。」拓海の言葉は、彼自身の心の奥底から出てきたものでした。彼は彼女との別れがあまりに辛く、どうしても再び会うという希望を持ちたかったのです。
千夏は驚いたように彼を見つめました。「3年後…?」
「うん、3年後。お互いの夢を追いかけて、それぞれの道を進んで、でもまたここに戻ってこよう。そして、その時にお互いにどう成長したか話し合おう。」拓海の声には真剣さが込められていました。
千夏はしばらく黙っていましたが、やがて笑顔を見せて頷きました。「いいね、約束するよ。3年後、この桜の木の下で会おう。」
二人はその夜、長い時間を共に過ごし、夜明けまで話し続けました。そして、卒業式の日、別れの時が訪れました。千夏は笑顔で拓海に手を振りながら、「また3年後にね!」と言い残し、遠くへ旅立ちました。拓海も手を振り返し、彼女の姿が見えなくなるまで見送りました。
それから、拓海は社会に出て、彼なりの道を歩み始めました。仕事は忙しく、時には厳しいこともありましたが、心の中には常に3年後の再会の約束があり、それが彼の支えになっていました。そして、毎年春が訪れるたびに、あの桜の木の下での再会を夢見ていました。
しかし、3年目の春が訪れる少し前、千夏に関する突然の知らせが彼に届きました。千夏は海外での仕事を続けていたある日、交通事故に遭い、帰らぬ人となったのです。その知らせを受けた拓海は、全身が凍りつくような衝撃を受けました。彼との約束の日が近づいていたにもかかわらず、彼女はもうこの世にいない。再会の約束は、永遠に果たされることがなくなったのです。
それでも、拓海は約束の日に桜の木の下に行くことを決めました。彼女との思い出が詰まったその場所で、彼は彼女との最後の別れを告げようと思ったのです。
約束の日、拓海は一人で桜の木の下に立っていました。桜は満開に咲き誇り、風に乗って花びらがひらひらと舞い落ちていました。拓海はその桜を見上げ、心の中で静かに千夏に語りかけました。
「千夏、俺はここにいるよ。約束通り、戻ってきた。でも、君はもうここにはいないんだね…。」
拓海はそう呟きながら、涙を流しました。彼が伝えたかった思い、再会した時に話したかったこと、それらすべてが心の中に残り続けたまま、彼女に届くことはありませんでした。しかし、彼は知っていました。彼女との思い出と約束は、彼の心の中で永遠に生き続けるものであることを。
拓海はそっと目を閉じ、風に舞う桜の花びらを感じながら、心の中で千夏に別れを告げました。「ありがとう、千夏。君と過ごした日々を忘れない。そして、君との約束を胸に、これからも俺は前に進んでいくよ。」
それは、永遠の別れの物語でしたが、二人の心がいつまでも繋がり続けることを感じさせる、不思議と温かい希望が残る物語でもありました。