1990年12月23日に中山競馬場で施行された第35回有馬記念。
地方笠松から中央に移籍し、ハイセイコー以来の競馬ブームの立役者となった芦毛の牡馬オグリキャップ。
同年春の安田記念はレコードタイムで優勝し、宝塚記念ではオサイチジョージの2着に入ったものの、秋のシーズンは天皇賞(秋)を6着、ジャパンカップを11着と惨敗し、限界説も囁かれ、「もう負けるオグリは見たくない」とまで言われていた。
ファンはオグリキャップを引退レースと決まっていた有馬記念にファン投票1位で送り出した。
逃げると思われていたミスターシクレノンが出遅れ、オサイチジョージが押し出されるような形で先頭を行く。
レースはスローペースとなり、オグリキャップは中団5,6番手から進んだ。
そして第4コーナーに差し掛かりオグリキャップは外目から先頭集団に並びかかる。
最後の直線に入りオサイチジョージを交わして先頭へ上がると内からホワイトストーン、外からメジロライアンが追い上げに掛かり、スタンドからは若い女性が「オグリ頑張って!!」、ラジオたんぱの実況をした白川次郎は「さあ頑張るぞオグリキャップ」、フジテレビの実況中継をした大川和彦は「オグリキャップ先頭!」と叫んだ。
そしてゴール板をオグリキャップが先頭で駆け抜けた。
この勝利により17万人の大観衆から「オグリ!オグリ!」というオグリコールと盛大な拍手が起こった。
重賞レース優勝馬であったオグリキャップであったが、当時すでに6歳という年齢で全盛期は過ぎていた。
引退試合の有馬記念で優勝できる可能性はほとんどないと考えられていた。
それにもかかわらず、優勝できたことが競馬ファンだけでなく、競馬に興味がなかった人をも感動させる結果となった。
ライターの関口隆哉も、「レース展開、出走馬たちのレベル、当日の状態など、すべてのファクターがオグリキャップ有利に働いた」としている。
岡部幸雄は「極端なスローペースが良かった」としつつ、「スローに耐えて折り合うのは大変」「ある意味で有馬記念は過酷なペースだった」とし、「ピタッと折り合える忍耐強さを最も備えていたのがオグリキャップだった」と評した。
オグリキャップは引退後、種牡馬となった。
2010年7月3日午後2時頃、優駿スタリオンステーション内の一般公開用のパドックから馬房に戻すためにスタッフが向かったところ、オグリキャップが倒れて起き上がれないでいるのを発見する。ぬかるんだ地面に足をとられて転倒したとみられ、その際に右後肢脛骨を骨折していた。
直ちに三石家畜診療センターに運び込まれるが、複雑骨折で手の施しようがなく、安楽死の処置が執られた。
その死は日本のみならず、共同通信を通じてイギリスのレーシングポストなどでも報じられた。