Hands packing books and folded cloths into a reusable canvas tote

母親の話

母がそっと鞄に入れてくれたもの

引っ越しの荷物を整理していると、奥の方から古びた小さな巾着袋が出てきた。中を開けてみると、それは十年前、私が実家を出る日に持たされたものだった。手に取った瞬間、忘れかけていた記憶が、堰を切ったように溢れ出してきた。

慌ただしかった、あの朝

大学進学を機に、私は生まれ育った町を離れることになった。引っ越し当日の朝は、とにかく慌ただしかった。段ボールを運び出すトラックの音、近所の人への挨拶、忘れ物がないかの最終チェック。玄関先はまるで戦場のようで、家族それぞれが自分のことで精一杯だった。

母は朝からずっと台所に立っていた。「お弁当作ってるから、ちょっと待ってて」と言うだけで、こちらを振り返る余裕もなさそうだった。私はというと、新生活への期待と不安で頭がいっぱいで、母の背中をゆっくり見つめる余裕すらなかった。

思えば、あの頃の私は母に対して、少し素っ気ない態度を取っていたように思う。「もう子どもじゃないんだから」「一人でやっていけるから」と、心のどこかで母の存在を煙たがっていた部分があったのかもしれない。出発の直前も、「じゃあ行ってくる」と軽く告げただけで、玄関を飛び出してしまった。母が何か言いかけていたのを、私は聞き流してしまったのだ。

電車の中で気づいたこと

新幹線の座席に腰を下ろし、ようやく一息ついたとき、鞄の中身を整理しようと開けてみた。教科書やノートの合間に、見覚えのない巾着袋が挟まっていることに気づいた。

不思議に思いながら開けてみると、中には小さなお守りと、四つ折りにされた便箋が一枚。便箋を広げると、そこには母の少し丸みを帯びた字で、こう書かれていた。

「体に気をつけて。困ったら、いつでも帰ってきていいからね。あなたがどこにいても、ずっと応援しています。」

たったそれだけの、短い文章だった。けれど、その一文字一文字から、朝からずっと私に何か声をかけようとしていた母の姿が浮かび上がってきた。忙しく台所に立ちながらも、頭の中では私に伝えたい言葉を、何度も何度も考えていたのだろう。不器用な母は、それを直接口にする代わりに、そっと鞄に忍ばせるという形を選んだのだ。

新幹線の窓の外を流れる景色がにじんで見えた。周りの目も気にせず、私はしばらく声を殺して泣いた。あんなに素っ気ない態度を取ってしまったこと、母の背中をちゃんと見ていなかったこと、後悔と申し訳なさで胸がいっぱいになった。同時に、言葉にできないほどの温かさが、静かに心に広がっていくのを感じていた。

今、あらためて思うこと

あれから十年が経ち、私は今、母と同じように誰かを見送る立場になることが増えた。後輩の門出を祝うとき、友人が新しい土地へ旅立つとき、ふと、あの日の母のことを思い出す。

大きな言葉や特別な贈り物でなくても、誰かを想う気持ちは、ささやかな形でちゃんと伝わるのだということを、あの巾着袋は教えてくれた。母は今でも、あのことについて多くを語らない。「そんなこともあったかしらね」と、少し照れくさそうに笑うだけだ。けれど、私はあの日の便箋を、今も大切に取ってある。

見つけた巾着袋を、そっと胸に抱きしめた。誰かを思う気持ちは、声高に語らなくても、ちゃんと届く。そして、その温かさは何年経っても色褪せることなく、これからの毎日を支える力になってくれる。

もし今、あなたの手元にも、誰かがそっと差し出してくれた小さな優しさがあるなら。それはきっと、明日を歩いていくための、かけがえのない灯りになってくれるはずだ。

-母親の話