サーキットに散った「音速の貴公子」



1960年、ブラジル・サンパウロ市でアイルトン・セナは生まれました。

4歳の誕生日にレーシングカートをプレゼントされて以来、セナはカーレースに魅了され、人生を捧げる事になりました。

13歳の頃には国際的なレースで活躍するようになり、17歳で南アメリカのレースを制し、その翌年にはイタリアのカートメーカー「DAP」と契約しCIK/FIA世界カート選手権では2位を獲得。

日本のカートレースの最高峰「ジャパンカートレース」では4位、同大会にて団体戦で5位を獲得。

1983年、アイルトン・セナが23歳のときにF3に参戦。

誰もがF1への挑戦を夢見てしのぎを削る中、セナは開幕から怒涛の9連勝を飾ります。

その速さに目を付けた、F1ウィリアムズチームの創設者「フランク・ウィリアムズ」がセナをF1カーに乗せると、軽く走っただけで当時のコースレコードを記録。

そのままセナはわずか1年でF3を卒業し、F1の世界で走り始めます。

1985年から1987年までの間、セナは名門「ロータス」に在籍し走りました。

1986年には、チームのエースドライバーとなり、1987年には前年から希望していたホンダのエンジンを獲得します。

さらに、その年に開催された日本GPでは、2位でフィニュッシュを果たし、ホンダのエンジンに母国日本で初の表彰台を飾る栄誉をもたらしました。

1988年、セナはマクラーレンに移籍します。

2人の天才ドライバー「アイルトン・セナ」と「アラン・プロスト」、そしてホンダのエンジンが多くの勝利をマクラーレンにもたらしました。

1994年、長く籍を置いていたマクラーレンを離れウィリアウムズに移籍します。

それまでウィリアムズが武器としていた技術がルールの変更により禁止され、新しく完成したマシンは非常に繊細なものになっていたのです。

セナは「パフォーマンスは最悪で乗りこなせない」と漏らしていたそうです。

このためか、セナは開幕から2戦続けてリタイア。これはデビュー以来、初のことでした。

そして1994年に開催されたF1世界選手権第3戦の「サンマリノGP」。
当時を知る人は「まるで呪われていたようだった」と話します。

予選からアクシンデントが立て続けに起こり、沈痛な雰囲気に包まれていました。

セナと同郷の後輩 ルーベンス・バリチェロはマシンが宙に舞うほどの大クラッシュをして病院に運び込まれることとなり、その翌日にはローランド・ラッツェンバーガーが事故で亡くなります。

レース開催中の死亡事故は、1982年のカナダGP以来でした。

ついに、運命のレースがスタートしてしまいます。

しかし、スタートの直後にエンストしたマシンに後続車が突っ込み大クラッシュ。破片が観客席まで飛散し数名の観客が負傷しました。

サーキット全体が騒然した空気の中、再開されるレースでとうとう悲劇が起こります。

スタートから快調に先頭を走るセナ。当時25歳のミハエル・シューマッハが後を追います。
なんとかシューマッハを引き離そうとするセナと、必死でセナに食らいつくシューマッハ。

レースが7周目に入った時です。

シューマッハを抑えたままセナが時速300km以上でコーナーのタンブレロを抜けようとします。
しかし、セナはコーナーの入り口で急にコントロールを失いコースアウト。その勢いのままセナはマシンと共にコンクリートの壁に激突してしまいます。

救急ヘリがコースに着陸し、救命措置が行われ病院に搬送されましたが、搬送先の病院で脳死状態になり、レーススタートから4時間後、とうとうセナは帰らぬ人となりました。

決定的な死因は、大破したマシンの部品がヘルメットを貫通して、セナの頭を直撃した結果とされています。

圧倒的な速さから、「音速の貴公子」と呼ばれたF1レーサーは34歳の若さでこの世を去りました

レースに生涯を捧げた天才レーサーの早すぎる死に世界中のファンが涙しました。

時代が移り変わっても、セナが残したレースの軌跡は、これからも伝説として残り続けることでしょう。



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