愛犬の死を乗り越えて

私の犬に関する思い出話をしようと思う。
焦げ茶色のダックスフントで、名前はソラ。私が生まれる前から両親が飼っていて、生まれた時から一緒だった。


ソラは小学校低学年の時に死んじゃって、まあ今思えば大往生だったと思うんだけど、まだ小さかった私はソラの死が理解できなかった。
「ソラがいない!ソラがいない!」と泣いて両親を随分と困らせたのを今でも覚えている。


ソラが死んで数週間後に、老夫婦が隣の部屋に引っ越して来た。
なんと、その夫婦もダックスフントを飼っていて、その犬がソラにそっくりだったのだ。
私は「ソラが隣の家にいる!帰って来た!」と大騒ぎをして、母は申し訳なさそうに頭を下げていた。
しかし、ソラの死を理解できていない私は、勝手にあの犬はソラだと信じ込んでいた。


私はエレベーターで、ダックスフントを連れた老夫婦と一緒になった時、ソラが突然起きなくなり、その後いなくなったこと、この犬がソラにそっくりなことをまくしたてるように話しかけた。
今も思うとどんなに迷惑だっただろうと思うけど、その時はおかまいなしだった。
するとおばあさんの方が優しい口調でこう言った。
「お嬢ちゃん、この子はソラちゃんかもしれないね。生まれ変わりっていうのがあって、特別な犬は生まれ変わるんだよ。
大好きな飼い主のところに帰ってくるんだよ。」と。
私はその言葉で舞い上がった。「やっぱりこの子はソラなんだ!」と飛び上がって喜んだ。
老夫婦はニコニコしながら喜ぶ私を見ていた。


その日から、その老夫婦のダックスフントは私が散歩係になった。
老夫婦はそのダックスフントを「ピノ」と名付けていたようだったけど、私は頑なに「ソラ」と呼び続けていた。
しかし、散歩をするうちに私は気づいていた、
母も、その夫婦も、何も言わなかったけれどこの犬はソラじゃないのかもしれない…。
私は、「この子は、ソラじゃないんだね。」と漏らした。
老夫婦はにっこり笑って「この子はソラちゃんとは違うかもしれない、でも、あなたが初めてこの子を見た時、ソラちゃんを思いだしたなら、この子にもソラちゃんが宿っているんだと思う。
死んだ命のことを無理に忘れることはないんだよ。ソラちゃんだと思って、たくさん可愛がってちょうだいね。」
と言ってくれた。
私は、この言葉を聞いてから、胸がスッと軽くなったような気がした。
初めて、ソラの死を受け入れられたのだ。


あれから、ペットだけでなく、家族や親戚などと辛い別れを経験してきたけど、ふと面影を感じる人に会うたびに、その人が宿っているような気がして嬉しくなる。
死を悲しいもの、悲しみを少しでも早く忘れなければいけないもの、という考えではなく、いたるところで死んだ命を感じ、受け入れさせてくれたソラとピノ、そしてあの老夫婦との時間は今でも私の宝物だ。

祖母との最後の会話

あれは高1の時だったかな。
家も近くて幼馴染の拓也と同じ高校に進学することができて、いつも電車の中でくだらない話で盛り上がっていた。
二人ともゲーマーでもちろん帰宅部だったから、行く時間も帰る時間も大体同じ。
そこそこ田舎だったから電車の中のメンツもなんとなく顔見知りだった。


その中に少し腰の曲がったおばあちゃんがいて、しょっちゅう俺たちに話しかけて来た。
それも毎日毎日同じような話。
俺は「無視しろよ…」と内心思っていたけど、普段特別親切なタイプでもない拓也は何故か律儀にその会話に付き合ってあげていた。


だけど、あの日はちょっと様子が違った。
いつものように俺たちを見つけると話しかけてくるはずのおばあちゃんは、多分、俺たちより何個か先の駅で降りるんだけど、今日は何故か同じ駅でおりて、降りたはいいもののオロオロと駅で立ち尽くしているのだ。
聞くと、どこにいけばいいかわからないし迷子になったと言っている。


俺は「適当に駅員さんに引き渡して帰ろう」と拓也に提案したけど、拓也は「おばあちゃん、財布見せて」
というと病院の診察券と予約票を見つけ、「今日の9時から◯◯病院でしょ?じゃあ次の次の駅だよ。」と優しく諭していた。
それでもオロオロするおばあちゃんの手を引くと、なんとまた電車に乗り込み、学校とは違う駅の方向へ向かってしまった。
俺も慌てて追いかけ、結局おばあちゃんの通っている病院の最寄駅で一緒に降りた。


駅に降りると大学生くらいの若い女性が取り乱した様子でおばあちゃんに駆け寄ってくる。
事情を話すと、俺と拓也の手を握りながら何度もなんども「本当にありがとう!」とお礼を言われた。
この女性はおばあちゃんのお孫さんで、最近、迷子になることが増えて、通院をさせるのが心配だったけど一人で行けると聞かなかったそう。
病院から予約の時間になってもおばあちゃんが来ていないと家に連絡があり、みんなで慌てて探しに出たところだったという。


「今時の高校生でこんな親切な子たちがいるんだねえ!」
と女性は感動した様子で、駅ナカのコンビニでお礼にとパンやお菓子、ジュースなどを買ってくれた。
「私、一緒に住んでると、どうしてもばあちゃんに優しくなれない時があるんだ。今日も一人で行ける、危ないよって言い争いになって、じゃあ行ってきな!って追い出しちゃったんだけど、すぐにまずいことしたって気づいた…でも危ないとこだったよね」
と目に涙を浮かべていた。
すると拓也が「実は俺、中三の頃、いつもなんでも甘やかしてくれるばあちゃんに、ゲームをねだったら、受験の邪魔になるから買ってあげられないって断られて…母ちゃんと父ちゃんに止められてたかららしいんだけど、俺はばあちゃんにクソババー!って悪態ついて、そのまま不貞腐れてずっと口聞かなかった。そしたら結局、口聞かないまま、ばあちゃん死んじゃって。それ以来、後悔してんのか、似たような雰囲気のばあちゃんほっとけなくて。」
「俺みたいに、意地はってたらそのまま会えなくなっちゃうこともあるし、こうやってすぐに探しに行ってあげるのすごいと思います!」
今までちゃらんぽらんだと思ってた拓也がなんだか大きく見えた。
拓也の行動と、その言葉で、おばあちゃんだけでなくこの女性も救われたような表情をしていて、少し面倒臭がっていた自分が恥ずかしかった。


俺には照れ臭かったのか、そんな話は一切してくれなかったので驚いたけど、あの日以来、俺もおばあちゃんと拓也の会話に積極的に参加するようになった。
この一件がきっかけで俺は今、介護の仕事をしている。
困っているお年寄りだけでなく、その人たちを支える家族も助けられることに気づいたからだ。

小児がんだった息子の願い

歳の離れた弟は体が弱く、小さい頃から何回も入院を繰り返していて、両親に代わって僕がお見舞いにいくことがよくありました。
同じ病室には小児がんでずっと入院している子が何人かいて、特別人懐っこいF君と僕は弟と同じくらい可愛がっていました。
F君は何年もほとんど病室から出たことがなく、F君のご両親曰く、病状も思わしくない状況が続いているとのことでした。
それでもご両親も、F君も、いつもとっても明るいんです。
親子で話しているときは、ごく普通の幸せの家族そのもので、僕の弟はF君ほどの重病ではありませんでしたが、入院のストレスで塞ぎ込むことも多く、F君一家の明るさには驚かされていました。
しかし、ある時期を境に、F君の病状は僕の目から見てもわかるくらいに悪化していきました。
僕もなんと言葉をかけていいかわからず、当たり障りのないことを話すことしかできなかったのですが、それでも病室ではF君のご両親はいつも通りに明るく振る舞い、F君も調子が悪い中でも笑顔を絶やしていませんでした。
「本当に強い家族だな…」と驚いたものですが、お見舞いに行った帰りのタクシー乗り場で、F君のご両親が泣いているのを見て、僕は胸が締め付けられる思いでした。
またその後、F君がベテランの看護師さんに「僕は、あとどのくらい生きられるの?」と聞いているのを聞いてしまった僕は、F君家族が病室で無理をしてでも明るく振舞っていることに気づき、涙が止まらなくなりました。
それから数週間して、F君のがんはさらに重くなったようで、重症患者の病棟に移りました。
僕は、ご両親が帰った後に不安そうな表情で自分の余命を訪ねるF君の姿が忘れられませんでした。
その後、F君が亡くなったことをF君のご両親から聞かされました。
「今まで仲良くしてくれてありがとう。」と、弟におもちゃを持ってお礼を言いに来てくれたF君の両親は、見たことがないくらいに憔悴しきっていました。
大人でもその副作用に苦しむくらいですから、子供にとっての抗がん剤治療はとても苦しいものです。
F君のご両親は、「これを打てば良くなるから」と言ってF君を励まし、F君はそれを信じ、我慢して注射を打ち続けたそうです。
最期、もう手の施しようがないくらいに悪化して、息を引き取る直前のFくんは、消え入りそうな声で「注射…打って…」と懇願したというのです。
「注射を打てば、よくなる」、ご両親の言葉を信じ、何度も何度も痛みに耐えて注射を打って来たF君はまた注射を打てば、自分はまだ生きられるんだ、そう思って、注射を打って欲しいと何度も何度もご両親に頼みこんでいたそうです。
その姿が今でも目に焼き付いて離れない…ご両親は目を真っ赤にして僕にそう話してくれました。
あれだけ病気がちだった弟も、今ではすっかり病気知らずでスポーツ推薦で大学にいくほどになりました。
幼かったこともあり、弟はF君のことも含めて、入院生活のことはほとんど覚えていないようですが、僕はF君とご両親のことは一生忘れないでしょう。

【動物の泣ける話】大好きなサチヘ

前の飼い主の都合で初めて我が家に来た夜、お前は不安でずっとないていたね。

最初、お前が我が家に慣れてくれるか心配だったけど、少しずつ心を開いてくれたね。

小学生の時、空き地でお前とよく追いかけっこしたよね。

速かったなぁ。

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アフガニスタンで医療活動に従事した医師

2019年12月4日、アフガニスタンで医療活動に従事した一人の医師が銃撃を受け死亡した。

彼の名は、中村哲、享年73歳。

1946年に翌年に福岡市で生まれ、福岡市の西南学院中、福岡高に進み、九州大医学部を卒業後、佐賀県の国立肥前療養所(現・国立病院機構肥前精神医療センター)に勤務。

このとき、アフガニスタン、パキスタンの国境にまたがる山の登山隊に参加したことが、両国に愛着を抱くきっかけとなった。

1984年、キリスト教団体の派遣医として、パキスタン北西部ペシャワルの病院に赴任。ハンセン病患者の診療に当たる。前年には中村哲医師を支援する非政府組織「ペシャワール会」も発足。

1991年、アフガニスタン山間部の無医地区の苦境を知り、国境の峠を越えて診療所を開設。その後も活動地域を広げ、最も多い時期は11カ所で診療所を運営した。

2000年、アフガニスタンで大干ばつが発生。農地の砂漠化が進み、住民たちが次々と村を捨てた。飢えと渇きの犠牲者の多くは子どもたち。「もはや病の治療どころではない」。かんがい事業を決意し、井戸掘りを始める。2006年までに井戸は1600カ所となった。

2003年、「農村の回復なくしてアフガニスタンの再生なし」。地下水に頼るかんがいの限界を知り、用水路の建設を始めた。

2010年、真珠を意味する「マルワリード」と名付けられた用水路が完成。荒れ果てた農地に加え、元々砂漠だった場所までもが緑に生まれ変わった。住民の心のよりどころとなるモスク(イスラム教礼拝所)とマドラサ(イスラム神学校)も建設した。

2019年、アフガニスタン政府から名誉市民権を授与される。作業現場へ車で向かう途中に銃撃され、死亡。

同年12月23日、政府は中村への旭日小綬章の追贈と内閣総理大臣感謝状の授与を決定。

2020年1月、ガンベリ(Gamberi)公園にドクターサーブナカムラ記念塔が建設された。

病魔と闘い勝ち取ったカムバック賞

2015年10月16日に45歳の若さで逝去した元プロ野球選手がいた。

横浜ベイスターズや近鉄バファローズで活躍した投手、盛田幸妃。

身長186センチから投げ下ろす快速球を武器に、函館有斗高で甲子園に3度出場。

高卒1年目の1988年から一軍登板を飾り、徐々に登板機会を増やす。

1992年に14勝6敗2セーブとブレーク。52試合登板のうち46試合が救援登板だったが、3イニング以上のロングリリーフも何度もこなして規定投球回に到達。

最優秀防御率を獲得した。94年に登録名を「盛田幸妃」から「盛田幸希」に変更。背番号も「15」から、前年引退した斉藤明夫の「17」を継承する。同年は開幕前に右ヒジを手術した佐々木主浩に代わり守護神を務めるなど46試合登板で8勝4敗16セーブ、防御率2.48。95年もリーグ最多の57試合登板で8勝4敗5セーブ、防御率1.97と球界を代表するセットアッパーとして光り輝いた。

当時全盛期だった盛田の投球はすごみを感じさせた。ムチのようにしならせた腕の振りから150キロを超える直球に加え、140キロ後半の高速シュートが打者の胸元をえぐる。

制球が決して良いわけではなかったのも打者は恐怖感を覚えて腰が引けた。どん詰まりの打球で凡打の山を築いたが、時には死球を与えて打者に激高されるときも。だが、盛田も一歩も引かない。毅然とした表情でその後も内角を投げ続ける。負けん気の強さと覚悟を感じる投球スタイルだった。

1997年オフに中根仁との交換トレードで近鉄へ移籍。

横浜で救援から先発転向後は思うような結果を出せなかったが、近鉄で再びセットアッパーに戻ると32試合登板で5勝1敗1セーブ、防御率2.91の好成績をマークする。
しかし、体に異変が起きた。

5月末頃から右足首の違和感や麻痺などの症状が出て次第に悪化し、8月13日に一軍登録抹消された。

病院で検査を受けたところ、ゴルフボール大の髄膜腫が見つかり、9月に摘出手術を受ける。

医師から野球選手として復帰することは厳しいことを伝えられたが、盛田はあきらめなかった。

必死のリハビリと驚異的な回復力で翌99年のシーズン最終戦で一軍復帰した。

大病から復帰後は右足首に特製のギブスをつけて投げ続けた。

軸足の右足が思うように動かせない状況は想像を絶する苦労があったが、悲壮感を見せずにマウンドで淡々と投げた。

高速シュートは往年のキレではなかったが、緩い変化球を交えてゴロを打たせる投球術で活路を見出す。

2001年は6月13日のダイエー戦で1082日ぶりの白星を飾り、球宴も中継ぎ投手部門でファン投票1位に選ばれて出場する。34試合の救援登板で12年ぶりのリーグ優勝に貢献し、カムバック賞を受賞した。

翌年限りで現役引退を決断する。

通算成績345試合登板で47勝34敗29セーブ、防御率4.05。

引退会見で、「自分にやれることは終わったかなと、気持ちの上で満足したことが大きかった」と穏やかな表情を浮かべた。

ユニフォームを脱いだ後は古巣の横浜(現DeNA)で球団職員を務めながら解説者として精力的に活動していたが、病魔が体を蝕む。

2005年の夏に脳腫瘍が再発するが、翌2006年2月に除去手術を受けて成功した。しかし2010年に脳腫瘍の転移による骨腫瘍が発生、2013年には脳腫瘍も再発、骨への転移と手術も繰り返すようになり、2014年の春には大腿骨を骨折していた。

2015年に入って全身に癌が転移し自宅療養に入っていたが、10月16日午前、転移性悪性腺腫のため死去。

盛田の生き様は多くの野球ファンの心に深く刻まれている。

亡くなった妹からの手紙

あれは3年前の冬のことでした。
私は特に妹と仲が良かったわけではないのですが、急に「妹と話したいな」と思い、「最近どう?元気?」とメールをしました。
しかし、そのメールの返事がくることはありませんでした。
妹からの連絡の代わりに来た連絡は妹の自殺を告げる電話だったのです。
亡くなった時刻は、ちょうど私がメールを送った少し後だったそうです。
もしメールではなく電話をしていれば、妹の異変に気付けたのではないか、私は目の前が真っ暗になりました。
妹は長いこと鬱病を患っていました。
心配した母は、毎日仕事終わりに実家に夕飯を食べにくるように言いました。
妹の異変に少しでも気づけるようにと、母なりの気遣いでした。
食事の時には妹は仕事の話をしたり、外行きのメイクをしていたこともあり、母は安心していた部分もあったのですが実は、それは妹が最後の力を振り絞った芝居だったようです。
本当は、妹は鬱病の症状がひどく、仕事に行くことさえできなくなっていました。
しかし、母に心配をさせないように、メイクをして、着替えて、仕事の話まで母にしていたのです。
鬱病の人にとってこれはかなりの負担になるということを、看護師をしていた私には痛いほどわかります。
それだけではありません、妹は自殺の時も車の中で、誰にも迷惑をかけずに亡くなっていました。
助手席には、警察への手紙と、母への手紙があり、警察への手紙には
「ご迷惑をお掛けして大変申し訳ございません。」という謝罪の他、母や私の連絡先などが書いてあり、警察の方が手を煩わせないように気を使っていたというのです。
警察の方も目に涙を浮かべながら「あんなに死の間際まで気遣いをされる方は珍しいですよ」とおっしゃっていました。
母への手紙は小さな文字でびっしりと感謝の言葉、どうしても、もう生きて行くのが辛いから先に死なせてほしい、といった内容が書かれていました。中でも「私はもう生き切りました。人生から解放されたいのです。」という言葉は今も忘れることができません。
鬱病で辛い状態であったのにも関わらず、ここまで誰かを思いやる妹には言葉が出ませんでした。
そして、住んでいたアパートも空になっており、遺品整理なども済まされ、水道や電気なども解約されていました。
一般的には自殺は絶対にしてはいけないことだと言われています。
しかし、私は妹は「生き切った」と思っています。
自分がどんなに辛くても、身を削ってまで他人を気遣い、思いやる生活から解放され、これでゆっくり休めるね、と直感的に思ってしまたのです。
同時に、なぜ私は妹を少しも思いやってやれなかったのだろう?と思い、生死についての考えを改めるようになりました。
私は妹の死をきっかけに、人への関わりかたを思い直しただけでなく、人から受けた気遣いや思いやりを深く感謝し、その裏にある相手の苦しみなども考えるようになりました。
妹のような優しい人間が疲れ果ててしまう世の中を少しでも変えていけるように、今は自殺防止のボランティアをしています。そこで出会った夫と、3人の子供と今は幸せに暮らしています。私は妹の死を責めたりはしたくありません、それではまた天国の妹が気を遣ってしまうと思うからです。妹に伝えたい言葉はただ一つです。
私の生き方を変えてくれて、夫に会わせてくれて、たくさんの気遣いと思いやりをありがとう。

ICUで僕を支えてくれたもの

僕が高校三年生の頃、ちょうど肌寒くなってきた時期でもあり、冬物を着込み始めた頃だったと思います。
高校にバイクで向かっていて、いつもの交差点に来たときのこと。
突然クラクションが鳴り響き、驚いて横を見ると、すぐ近くに大型のワゴン車が迫っていたのです。
その瞬間、スローモーションになったのを今でも覚えています。
「どうしよう、アクセルを開けて急加速すれば避けられるだろうか、ブレーキをかけてとまればぶつからないだろうか?」
考える時間はたくさんありましたが、時間としては一瞬の出来事だったようで、気づいたら体は吹っ飛び、体がフェンスに激突していました。
その時は痛みは感じなかったので、たいしたことないのかな?と思っていました。
すると、周りの人たちが「動かないで!」と騒ぎ始め、気づくと足はズボンの上からでもわかるくらいの大怪我、喉の奥から血の味がして、息が苦しくなって来ました。
その交差点は右斜め前に総合病院があったので、すぐ近くの病院に運ばれました。
どんどん息がしづらくなり、検査したところ、足と肩甲骨、肋骨の骨折の他に、肺が潰れていることがわかりました。
緊急手術をすることになり、手術後はICUに運ばれました。
最初は大したことないと思っていたこともあり、全く自分が死ぬとは思っていなかったのですが実はこの時、僕はかなり危険な状態で、両親は
「助かるどうかはわかりません。命は取り留めたとしても、植物人間になる可能性もあります」
という説明を受けたようです。
ICUは無菌状態になっているため、基本的には面会はできません。
そんな中で僕は過酷な治療に耐えなければいけなくなりました。
肺が潰れて大量に出血していたので、鼻からチューブを入れて5分おきに血を抜く治療をしたのですが、それがとても痛くて、苦しくてたまりませんでした。
でもそれをしないと、呼吸ができなくなり、死んでしまいます。
24時間続く地獄のような治療に僕は心が折れかけていました。
そんな孤独なICUで僕を支えてくれたのは、友達の存在でした。
ICUの病室の扉には、小さな窓がついていて、その窓からたくさんの友達が僕を励ましに来てくれたのです。
もちろん会話をすることはできませんでしたが、友達は筆談や、変顔で僕をたくさん笑わせてくれました。
友達が来てくれている間だけは不思議と、痛みと苦しさを忘れることができました。
入院生活は長かったですが、友達は代わる代わるに毎日来てくれました。
中には何年も会っていなかった懐かしい幼馴染なども来てくれて、辛い入院生活において、窓から顔を出す友達の顔が僕を救ってくれたのです。
後から聞いたのですが、実は僕の両親が僕が死の危険があることを告げられてからたくさんの僕の友達に「もしかしたら最期かもしれないから、会いに来てあげてほしい」と言ってくれて、それで本当に毎日多くの友達がきてくれたそうです。
当時の医療技術ではまず助からないとまで言われた大怪我でしたが、気持ちが負けなかったおかげで、僕は今も生きています。
高三の受験を控えた時期だったのにも関わらず、僕をはげましてくれた友達と、呼びかけてくれた両親には感謝してもしきれません。
周りの人の温かさのおかげで起きた奇跡を、今後もずっと忘れずに生きていきたいです。

早世した若き天才数学者

2013年、一人の若き天才数学者が31歳という若さでこの世を去った。彼の名は、長尾健太郎。

人は彼のことを「神童」とも「天才」とも「未来を嘱望された若手数学者」とも形容する。ただ一環しているのは、彼の頭脳力と、それに劣らない人格に対する尊敬と敬愛だった。

数学の天才として語られる長尾健太郎氏は、深く鋭く優しく熱く、世の中を語り、人間を語り、美しい言葉を紡ぎあげる青年だった。

長尾健太郎氏は、東大に多くの進学者を輩出している開成高校時代、国際数学オリンピックで3年連続金メダルを獲得した。

開成高校卒業後、東京大学理科I類に進学し、囲碁の国際大会の日本代表として活躍。

京都大学大学院に進学し、表現論と幾何学を研究して、博士号を取得。日本数学界の期待の星となった。

英国オックスフォード大学に留学後に、名古屋大学大学院多元数理学研究科の教員として教壇に立った。

しかし、そのころ、すでに胞巣状軟部肉腫という筋肉の癌に蝕まばれた状態にあり、壮絶な闘病生活を送っていた。

15歳で発症した胞巣状軟部肉腫は25歳を過ぎてから肺に転移するなど進行が早まっていた。

2010年には、妻との間に待望の子供を授かり、彼は弱音を吐かず、子供の成長を生きる希望にしていた。

しかし、日本数学会から名誉ある「建部賢弘賞」を受賞する。だが、愛媛県で行われた受賞式が3歳の息子に見せた「かっこいい父親」の最後の雄姿となった。

彼の死後、全国の小中学生が算数や数学の思考力を競う「算数オリンピック」に新たな特別賞「長尾賞」が新設された。

愛する妻と抱くことの出来なかった我が子

この話は、誰にでも起こることであり、命の誕生というのがどれほど尊いものなのか、奇跡であるのかを感じてほしい。
そして愛する妻と、愛する子供をお持ちのお父さんは今ある現状を「当たり前」だと思わないでほしい。
私は未だに現実を受け入れられないでいる。
しかしこの現実を伝えることで、これから親になる人たち、現在お子さんをお持ちの親御さんたちの胸になにか響くものがあればいいと思っています。
20代前半で結婚した私たち夫婦は、お互い仕事も順調で夫婦の時間をしばらく満喫していました。
妻が30歳に入る前に子供ができるといいねと話していましたが、なかなかそううまくいくものでもありませんでした。
結婚10年目を迎えて、ようやく待望の赤ちゃんを授かることができました。
エコーに写る小さな小さな我が子に、二人で感動して涙を流したのを覚えています。
「この子を大切に大切に育てよう。」二人が親になる決心をしたのもこの頃です。
妊娠中の生活は気を付けなければならないことが多く大変でした。
毎日の食事面や生活面で常にお腹の子を気遣いながらの生活は緊張感がありながらもどこかわくわくした気持ちがあって全く苦ではありませんでした。
妊娠5ヶ月を過ぎて、妻のお腹がちょっとずつ大きくなるにつれて自分が親になる実感もわいてきました。
特になんのトラブルもないまま10ヶ月が過ぎました。
あの日もいつもと何も変わらない笑顔で妻は健診に向かいました。
もしかしたらもう産まれてくるんじゃないかと思いそわそわして妻の帰りを待っていました。
ですが、もう妻が帰ってくることはありませんでした。
この手で抱くことを10ヶ月間待ちわびた我が子にも、一度も会うことができませんでした。
死因は常位胎盤早期剥離という妊娠中や分娩前に胎盤が剥がれ落ちることで、胎児が脳性麻痺や死に至るというものでした。
大量出血により母体も死亡することもあります。原因は未だにはっきりとはわかっていませんが、高齢出産や高血圧などの人に比較的多いとされているようです。
妻は基礎疾患もなく、妊娠中にかかりやすい高血圧や糖尿にも人一倍気をつけていました。
常位胎盤早期剥離は通常のエコーでも気づきにくく、早期発見は難しいそうです。
これから家族3人になる予定だったのに、気づいたら家には私一人取り残されていました。新しく迎え入れるはずだった我が子のために用意した服やおむつ、ベッドを見るたびに涙が溢れ、胸を締め付けられます。
なんで妻が、なんでうちの子が、そう何度も自分自身に問いかけました。
けれどこれは誰が悪いんじゃない。誰しもが起こりうることです。
たまたま私の妻が、私の我が子が常位胎盤早期剥離によってこの世を去ってしまった。
これから出産を控えている人にとっては不安になるかもしれません。
最後まで、決して油断せずに元気な赤ちゃんを産んでください。
そして無事に生まれたことは決して当たり前なんかじゃない。
命の誕生は奇跡なんです。そのことを忘れずに大切に大切に育ててあげてください。